第1963回 軍神の団子


 和洋中を問わずお菓子好きで、甘い物には目がない身としては、団子といわれると大いに興味をそそられてしまいます。中でもヨモギを練り込んだ団子が大好きで、包んだ笹の葉の香りがアクセントとして加わる「笹団子」はお気に入りの一品となっています。

 笹団子は新潟県の特産品で、もち米とうるち米の上新粉に白玉粉を使って作られ、熊笹の葉で包んで仕上げられています。熊笹の葉は春によく伸びた物を摘み、熱湯に通して日干しにしておいた物を水で戻して使います。鮮やかな色合いと特有の風味が団子の美味しさを引き立ててくれるだけでなく、抗菌作用がある事から食品の保存に使われ、笹団子の保存性を高める目的も兼ね備えています。

 通常見かける笹団子は和菓子として中に小豆餡が入っているのですが、小豆餡の代わりにきんぴらが入った物もあり、小豆餡が入った物を「女団子」、きんぴらが入った物を「男団子」と呼んで区別するといいます。きんぴらが入るのはいろんな具材を入れていたかつての名残りとされ、おにぎりのように梅や鰹節などさまざまな具材が使われていたとされます。団子の男女という区別に関しても、中に入る具を子供に見立て、中に何らかの具が入った物を「子を宿す」という意味から「女団子」、何も入っていない団子だけの物を「子を宿さない」という事で「男団子」と呼んだともいわれます。

 「北越風土記」によれば笹団子は戦国時代に携行保存食として考案されたと記されていますが、一説には戦国時代、軍神と怖れられ、織田信長でさえ部下たちに陣頭で指揮を執る姿が見えたら、戦わずに逃げよと命じたとされる武将、上杉謙信が考案したとされます。

 上杉謙信というと、戦国の乱世にあって道義をを重んじ、自らの利益のためには領土の拡張を行わず、文武両道に秀でた名将として知られ、謙信が率いた軍勢の強さは後世にまで語り伝えられていますが、謙信が合戦の際に非常に重要視していたのが兵糧であったとされます。

 上杉家に伝えられた軍記の「北越軍談」には兵糧に関する詳細な記載があり、米や味噌といった通常の食ばかりでなく、籠城の際の事を想定し、糠やワラ、木の実や草の根、芋の茎など多種多様な食料とする事が可能な物の調理法や食べ方が記され、合戦を行う上で食を重要視していた事が伺えます。

 謙信自身も兵糧の研究に熱心で、栄養価の高い素材を組み合わせて凝縮し、薬効成分を加えた今日のサプリメントやシリアル食のような「兵糧丸」を開発しています。そんな謙信が行軍の際の携帯食として考案したのが笹団子とされ、上杉軍の兵士は兵糧として笹団子を携帯していたと伝承されています。

 笹団子の考案については謙信本人ではなく、上杉四天王の一人に数えられた重臣の宇佐美定満が発明し、謙信に献上したところ大いに気に入り、以後、上杉軍の兵糧として採用されたとする説もあります。定満考案説については「北越軍談」にその旨の記載が残され、「北越軍談」が上杉家の軍制や軍事記録、謙信に関する詳細な記録などが多数記載された上杉氏を研究する上での重要な資料となっている事を考えると、定満が考案した事が裏付けられるように思えてきます。

 しかし、「北越軍談」は定満の子孫である定祐によって著され、宇佐美家を賛美し、過剰に引き立てようとして史実を脚色したと取れる箇所が散見される事から、定満が上杉軍の重要な兵糧である笹団子を考案したという事もどこか疑わしく思え、決め手に欠けてしまいます。

 「北越風土記」には領内の役人が笹団子を考案し、出陣しようとする謙信に献上した事がはじまりとされていますが、その後、上杉軍の兵糧として採用されながら、献上した役人がいたとされる地元には笹団子が普及していないという不自然な点があり、役人考案説は根拠に薄いものと思えます。

 団子の原形となる穀物を粉状にして練った物は縄文時代から食べられていて、現在の物と同じような物は奈良時代に遣唐使が持ち帰ったとされ、団子はかなり古い歴史を持っています。農村部では古くから非常食として団子が作られていた事から、戦の際の携帯食とした事は自然の成り行きともいえます。

 一般的に団子にヨモギを練り込むようになったのは、砂糖を庶民が気軽に使えるようになった明治時代以降の事となっています。栄養価や薬効に優れ、保存性を高める働きもあるヨモギを団子に練り込み、熊笹で包んで笹団子として兵糧にする事は、日頃から兵糧を大切に考えて研究を重ねていた賜物のようにも感じられ、そうなると謙信に結び付いていくようにも思えます。軍神と怖れられた武将が残した笹団子というのも微笑ましいように思え、謙信考案説が事実であってほしいと願ってしまいます。


 
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第1820回 類似メニュー?



 根室市のご当地グルメ、「エスカロップ」によく似た物として、敦賀ヨーロッパ軒で出されている「スカロップ」なる料理の存在がいわれます。両者には直接の関連性はないとされながら、共に語源を薄切り肉を指す「エスカロープ」に持つ事や、トンカツにドミグラスソースをかけて仕上げられる点は非常によく似たものとなっています。

 ヨーロッパ軒というと「ソースカツ丼」で知られた名店で、1912年、ベルリンで6年間の料理研究の留学を終えて帰国した店主、高畠増太郎がドイツ仕込みのウスターソースに独自の工夫を加え、日本人の好みに合うようにしてトンカツと合わせ、丼物して発売したとして、ソースカツ丼の開祖ともいわれている老舗洋食店でもあります。

 大正2年(1913年)に東京の早稲田で開店されたヨーロッパ軒は、その後、大正12年(1923年)に関東大震災で被災し、翌大正13年には高畠の故郷である福井での営業再開となっています。

 昭和14年(1939年)には初の暖簾分けとして敦賀市に「敦賀分店」がオープンし、その後も暖簾分け制度によって複数のヨーロッパ軒が存在しています。暖簾分け第一号店となった敦賀ヨーロッパ軒と総本店との違いの一つとして、スカロップの有無がいわれる事から、スカロップは敦賀ヨーロッパ軒で考案されたと考える事ができます。

 スカロップとエスカロップの最大の違いは、スカロップにはドミグラスソースがかけられたトンカツの下にバターライスなどのご飯類がない事で、エスカロップが一皿で主食とおかず、サラダといった一食が完結することに対し、スカロップは別皿に盛られたご飯を足す事によって一食が成立します。

 似て非なる物となっているスカロップとエスカロップですが、興味深い事にスカロップはサラダとナポリタンスパゲティを付け合せとして皿に盛り付けた後、ドミグラスソースで味付けしたトンカツが乗せられる事から、トンカツがスパゲティに乗る形になり、それは開発当初の頃のエスカロップそのものという事もできます。

 また、似たような存在に兵庫県加古川市周辺で食べられている「かつめし」の存在があります。トンカツソースを味付けに使った物も存在する事から、必ずしもという訳ではありませんが、ドミグラスソースをかけたトンカツが、白いご飯に乗せられています。

 かつめしはスカロップやエスカロップよりも10年ほど早い1953年頃に出現したとされ、異なる地域で相互に関連性がないにも関わらず、同じような料理が成立している事には、トンカツとドミグラスソース、ご飯の相性の良さが伺えるように思え、そういう目で見てみると、カレーライスにトンカツを合わせたカツカレーは広く存在するのに、ドミグラスソースのハヤシライスにトンカツを合わせたカツハヤシが存在しない事が不思議に思えてきます。


 

第1819回 一皿文化



 ある特定の地域では普通に食べられていて、その地域内では多くのレストランでメニューに載せられ、住民たちにとっては馴染み深い味となっていながら、その地域を出るとほとんど見られなくなり、全国的に知られた食べ物と思い込んでいた住民たちを驚かせてしまう。そんなご当地グルメは日本中に多く見られますが、その代表格の一つが「エスカロップ」ではないかと思えます。

 エスカロップは北海道根室市特有のご当地グルメで、みじん切りにされたタケノコが入ったバターライスの上にトンカツを乗せ、ドミグラスソースをかけて仕上げられます。一皿で一食が賄えるように、通常は皿の端にはサラダが添えられています。

 エスカロップというどこか異国の香りのする名称については諸雑があるとされますが、フランス語で肉を薄く切った切り身を「エスカロープ」と呼ぶ事から、それが語源となったというものが有力視されていますが、開発に当たってイタリア料理のシェフの力を借りている事や、イタリア語にもエスカロップに似た薄切り肉を指す言葉がある事から、イタリア語が語源というのが正しいようにも思えます。

 根室市内の洋食店、「モンブラン」のシェフが1963年に考案したものが瞬く間に根室市内に広まったとされ、開発の動機についても地元のグルメをうならせるメニューを作ろうとしたというものや、根室市は漁師町であった事から、手早く漁師たちの空腹を満たせるメニューとして開発したともいわれます。

 開発に当たっては、シェフ自身が各地のさまざまな料理を食べ歩き、新メニューに関する研究を行っていますが、その後、取引のあった横浜の食器店からの紹介で横浜で働いていたイタリア料理のシェフを招き、エスカロップは完成されました。

 開発された当初は、仔牛の肉をソテーした物またはカツレツにした物がナポリタンスパゲティの上に乗せられ、ドミグラスソースをかけて仕上げられていましたが、仔牛の肉は高価であった事から豚肉に変わり、スパゲティは漁師たちにも受け入れられやすいケチャップライスへと変わって、今日のスタイルに近いエスカロップが誕生しています。

 ケチャップライスのエスカロップを基にバターライスを使ったエスカロップが考案され、「ホワイトエスカロップ」としてバリエーションの一環として供されますが、後に評判となり、エスカロップといえばホワイトエスカロップを指すようになっていきます。一部にはケチャップライスのエスカロップも残されていて、親しみを込めて「赤エスカ」「白エスカ」と呼ばれています。

 バターライスの具材も、当初はマッシュルームやタマネギが使われていましたが、食感がよく食べ応えに繋がるタケノコへと代えられて今日のスタイルが完成します。

 根室には、エスカロップの他にもスタミナライスやオリエンタルライスといったワンプレートの料理が存在し、手早く一皿で食事を完了できるという食文化が根付いている事が伺えます。

 白いご飯の上にトンカツを乗せ、その上に野菜炒めと目玉焼きか生卵を乗せるスタミナライス、ドライカレーの上に焼いた牛肉を乗せ、ドミグラスソースをかけるオリエンタルライス、共にエスカロップから派生したものである事が明白ですが、忙しい漁師町特有の食文化が感じられ、興味深いメニューとなっています。



 

第1758回 合わせとシベリア



 漁港牛深へドライブすると、新鮮な魚介類以外にもいろんな楽しみがあり、その一つに牛深の郷土菓子「合わせ羊羹」があります。合わせ羊羹は白いんげんの一種である「大手亡」を使い、赤く着色された羊羹を和菓子に合うように工夫された白いスポンジで挟んだ和菓子で、パッと見は生のマグロの赤身をパンで挟んだサンドイッチのようにも見えるのですが、豆の豊かな風味がして、素朴で美味しい和菓子となっています。

 その合わせ羊羹によく似た物として、「シベリアケーキ」があります。シベリアケーキは羊羹をカステラで挟んだもので、色合い的に黒い合わせ羊羹のように見えます。

 シベリアケーキは、単純にスライスした羊羹をカステラで挟んだ物かというと、実はそうではなく、薄く焼いたカステラをトレーに敷き、まだ固まっていない溶けた状態の羊羹を流し入れた後、カステラを被せて冷して固めます。

 そのため、シベリアケーキのカステラは羊羹によって接着された状態にあり、容易に剥がす事はできなくなっていて、カステラを焼き、羊羹を準備するという非常に手のかかる和菓子である事が判ります。

 シベリアケーキが主に食べられているのは、首都圏を中心とした東日本と中部地方となっていて、西日本ではあまり見られない食べ物となっています。大手製パン会社から全国的に販売されていますが、出荷の中心は東日本に偏っているといわれます。

 特定の店において考案された物ではなく、地方の名産が広まった物でもないとされ、かなり歴史は古く、大正時代には喫茶店の前身となるミルクホールで食べられていた事が確認されています。

 シベリアと名乗っていますがシベリア原産ではなく、名前の由来については羊羹をシベリアの黒い永久凍土に見立て、カステラで氷を表現したとも、シベリア鉄道の線路を現しているともいわれ、シベリア出兵にちなんだともいわれます。

 シベリアケーキの原点には、愛知県松山市の郷土菓子、「タルト」があるのではとする意見もあり、薄く焼くか焼いたカステラを薄くスライスした生地で餡を巻くというタルトを、より庶民的にした物がシベリアケーキであるとされ、タルトがロールケーキのようば外観を持つ事に対し、羊羹カステラと呼ばれる羊羹の四方をカステラで巻き寿司のように巻いた物も存在する事から、タルトが羊羹カステラを経由してシベリアケーキとなったとも考える事ができます。

 タルトは長崎探題職にあった松山藩主の松平定行によって、長崎から伝えられています。天保4年(1647年)に国の統治者が代わった事を伝えるために、入港したポルトガル船によって伝えられた南蛮菓子に原点があるとされます。

 今のところ酷似するシベリアケーキと合わせ羊羹の間に関連性を示す資料は存在していませんが、ポルトガル船によって長崎に伝えられた南蛮菓子が原点にあるのであれば、両者は同じ進化の過程を経てきたように思え、その成立について詳しく記した資料はないものかと大いに興味をそそられてしまいます。


  

第1747回 新潟のイタリアン



 蒸した太めの麺をもやしやキャベツと共に多めにひいた油で炒め、ソースで味を付けるというと「ソース焼きそば」と思えるのですが、仕上げにさまざまな具材が入ったトマトソースをかけると新潟県の中越地方や下越地方特有のご当地グルメ「イタリアン」になります。

 イタリアンといっても麺にデュラム小麦のセモリナ粉が使われている訳でもなく、オリーブ油もワインも使われてはいません。小麦粉にかん水を加えて練り上げ、こしとつやのある麺を蒸して仕上げる典型的な中華麺が使われ、強いて上げれば最後にかけるトマトソースがイタリアしているというところでしょうか。

 イタリアンの歴史は1959年、新潟市の甘味喫茶「みかづき」から始まります。みかづきのオーナー、三日月晴三が箱根で行われる経営者セミナーに参加するために上京した際、東京都中央区京橋の甘味処「中ばし」で出された大阪風の焼きそばをアレンジしたソース焼きそばにヒントを得て、パスタ料理のようにフォークで食べる焼きそばをイメージしてイタリアンを考案しました。

 翌年の1960年にはみかづきの正式なメニューとなったイタリアンは、同じ商業セミナーで学ぶなど以前から三日月氏と親交があった「長岡饅頭本舗」の経営者である木村政雄にレシピが伝えられ、長岡市の甘味処「フレンド」でも販売されるようになり、新潟市のみかづき、長岡市のフレンドの二店によって初期イタリアンの普及が図られてきました。

 1961年、新潟市内の小学校で開かれる文化祭でみかづきがバザーに模擬店を出す事となり、イタリアンを売り出したところ口コミで評判が広まり、イタリアンはみかづきの売り上げの中心的存在にまで成長しています。

 その後、みかづき、フレンドの両社から麺やソースなどの一般向け販売が行われ、イベントなどへの出店強力も展開された事から、1960年代の後半にはイタリアンの知名度が一気に上昇し、中越、下越地方の文化祭やバザーの模擬店でイタリアンを見掛ける機会が増え、両社のチェーン展開もあって地元で親しまれるご当地グルメの一品となっています。

 元は一つであっても新潟市と長岡市という離れた土地で成長してきたみかづきとフレンドのイタリアン、似ているようで微妙な違いがあり、独自性を発揮しているとされます。

 みかづきのイタリアンは、断面が角型の太麺を使ったソース焼きそばに、トマトの酸味とタマネギの甘味がベースとなったソースをかけ、塩漬けにされたショウガの千切りが付け合せとして添えられ、基本コンセプトの一つであったフォークで食べる物となっている事に対し、フレンドのイタリアンは、断面が丸型の中細麺が使われ、仕上げにかけられるトマトソースも挽肉入りのミートソース、付け合せも紅ショウガとなっていて、割り箸が添えられています。

 また、基本的なセットにした場合、みかづきのイタリアンにはフライドポテトと飲み物が添えられる事に対し、フレンドの基本セットはギョウザと飲み物が添えられるという違いがあります。フライドポテトとギョウザという違いは、使用する食器にも影響を与え、みかづきがフォークというコンセプトを守り通した事に対し、フレンドはギョウザゆえの割り箸となっています。

 みかづき、フレンドをはじめ、それ以外の店舗からも新潟県外への普及が図られ、イタリアンだけでは判り辛いためか「新潟イタリアン」「イタリアン焼きそば」と称して販売されていますが、まだまだ全国的な知名度は低くなっています。ソース焼きそばにトマトソース、誰からも好まれる物の組み合わせなので、いずれ全国的な人気メニューとなるのではと思いながら、ご当地グルメとしては地域性が強い方がと相反する事を思ってしまいます。


 
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にんにく卵黄本舗の健康コラムです。
食と健康をキーワードに最新の医療情報から科学技術、食文化や献立まで毎日更新で幅広くお届けします。是非ご覧ください。

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