第1742回 再生紙と生け簀



 日本人にとって馴染み深い海産物というと、真っ先に思い浮かぶ物の一つに「海苔」があるのではないかと思います。タンパク質や食物繊維、ビタミン、ミネラルが豊富で、磯の風味に満ちた海苔は寿司やおにぎり、お茶漬けやふりかけ、ラーメンなど幅広い用途で親しまれています。

 日本人はいつごろから海苔を食べてきたのか、それを確定する明確な資料は残されていませんが、縄文時代の貝塚が示しているように海産物を日常的に食べていたのであれば、貝や魚だけでなく海藻も食用としていて、その中に海苔が含まれていた事は充分に考える事ができます。

 文献上、海苔が初めて登場するのは奈良時代の初期に編纂された「常陸国風土記」で、ヤマトタケルが霞ヶ浦を巡回している最中、海苔が大量に干してある土地に差し掛かり、その地を「乗浜(のりはま)」と名付けた事が記載されています。

 日本初の本格的な法律である「大宝律令」が制定されると、海藻は租税の対象として認められ、海藻の種類別に年間に収めるべき量が定められました。その中で当時、ニギメと呼ばれていたワカメは年間130斤、アラメ(テングサ)は360斤と定められていた事に対し、紫海苔は49斤で良いとされ、海苔がかなりの高級品であった事が伺えます。

 その後、室町時代に茶の湯が発達すると、僧坊料理の最後にお茶と一緒に出される「茶の子」の一環として海苔は欠かせないものとなります。そのころの海苔は生海苔が主流で、今日のような乾海苔の登場は江戸時代の後期の事となっています。

 江戸時代の中期、元禄年間の松尾芭蕉の句に「衰えや歯に食い当てし海苔の砂」というものがあり、当時は今日のような沖合いでの養殖ではなく、浜辺で自然採取された海苔を広げて乾燥ていた事から砂の混入が多かった事が判ります。

 今日のような紙のようにすいて成型する製法は、江戸の浅草において始められたとされ、盛んに作られ有名になっていた再生紙の「浅草紙」の製法にヒントを得たと考えられます。そのころすでに浅草で採れる良質の海苔は知られていましたが、このすき製法によってその名を不動のものとしています。

 江戸時代の後期、海苔の養殖はふとしたきっかけから始まっています。将軍家に毎日献上される魚は、万が一の不漁などによって欠品が生じないように海の中に囲いを設け、生け簀の中で飼われていました。

 生け簀は「そだ」と呼ばれる木の枝や竹などで作った柵に囲まれた物でしたが、そのそだに海苔が付く事から、海中にそだのような物を沈めておくと海苔が得られるのではと考えられ、実際に海苔を収穫できた事が海苔の養殖の始まりとされています。

 将軍家の日々の魚を供給していたそだによる生け簀は、「ヒビアミソダ」と呼ばれていた事から、海苔を養殖するためのそだの事を「海苔ひび」と呼ぶようになり、その後、素材は供給量の問題や作業性、経済性などの理由から木の枝から竹、そして現在では網が使われ、海苔が自然に付くのを待つのではなく、一旦、海苔の胞子を網に付着させてから海中に水平に張るという効率の良いものへと変わっています。

 海苔の養殖は日本以外でも韓国、中国、イギリス、ニュージーランドでも行われ、一時はアメリカでも養殖されていました。当初は海藻を食べる習慣のない食文化圏において、カーボン紙のようだと不評だったのですが、世界的な寿司ブームを受けて海苔への抵抗感も少なくなってきているとされます。

 一枚食べれば、その日に必要なミネラルの全てを賄う事ができるという優れた食材だけに、今後、更に評価が高まり、日本人が食べる変な食べ物という見方が変わる事を期待したいと思います。


 
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第1741回 黄色い不味さ



 さすがに今は厳しくなってきているので、そんな事はないと思うのですが、知り合いの農家の方がキュウリを栽培していて、真っ直ぐに育ったキュウリは通常の流通へ流し、曲がってしまったキュウリは「有機栽培」と表示して路地物の販売コーナーへ回していると話してくれた事がありました。

 別な農家の方は、真っ直ぐなキュウリは不自然という意見に対し、「キュウリはちゃんと育てると真っ直ぐに育つ。曲がってしまうのは、きちんと育てていないからであって、曲がったキュウリは不味い物だ」という話を聞かせていただいた事があります。

 私にとってキュウリは、大好きなレタスやキャベツを使ったサラダや糠漬けに欠かせない食材であり、大好きな野菜となっています。薄くスライスしたキュウリを塩で揉んで水気を搾り、マヨネーズと和えた物は、これからの暑い季節には重宝する料理となっています。

 そんなキュウリですが、古い文献を見ると評価が低く、あまり良い物とは思われていなかった印象を受けてしまいます。今日のキュウリからすると、何故そこまで低い評価だったのかと、少々不思議に思えてしまうものがあります。

 キュウリは漢字で「胡瓜」と書きます。漢の時代に中国の西方の周辺部族の事を「胡」と呼んでいて、胡から伝えられた瓜という事でその名が付けられたのですが、それがそのまま伝えられて日本語のキュウリに当てられています。

 日本語のキュウリについては、「木瓜」が語源とする説もあるのですが、「黄瓜」が元となったという説もあります。キュウリというと表面に限らず中身まで薄緑色で、黄色というイメージは全くないのですが、かつてキュウリは黄色い食べ物であったとされます。

 今日、私たちが接している緑色のキュウリは未成熟の状態の物で、キュウリが完熟すると黄色くなり、大きさも30cmを超える巨大な物となります。

 黄色く熟したキュウリは酸味が強く、種も硬くなる事もあって不味い食べ物となってしまう事から、食感と風味が良い未成熟のうちに収穫して食べるようになっています。

 また、原産地とされるネパールからインド西部にかけての地域に自生している野生のキュウリは、とても苦くて食用に適さない物となっており、現在の苦味を気にせずに食べられるキュウリは、品種改良を重ねた結果といえます。

 キュウリが本格的に普及するのは江戸時代の後期の事で、その頃になって未成熟で収穫するという食べ方と、苦味を減らす品種改良が本格化したと考える事ができます。

 歴史上、最もキュウリの事を悪く言った人物は、水戸黄門で知られた水戸光圀で、「毒多くして能無し。植えるべからず、食べるべからず」と語っていて、当時のキュウリがいかに不味い物であったかを伺う事ができ、今日とはずいぶんと違うキュウリ観に驚かされてしまいます。

 美味しいキュウリが食べられる時代に生まれて良かったと思いつつ、キュウリとしての本来の美味しさには欠けるプルームレスのキュウリが主流となってしまっている事に残念なものを感じながら、複雑な思いでキュウリという食材を眺めてしまいます。


 

第1740回 生態系の血液



 毎年、新種の生物が発見されています。そしてそれを上回る速度で名も知らぬ生物が絶滅しています。その営みが繰り返されれば、やがて地球上の生物種はどのくらいの数にまで減ってしまうのだろうと考えながら、それも長大な地球の歴史の一部となってしまうのだろうかと思ってしまいます。

 現在、地球上の生物種は、約170万種が知られています。そのうちの65%にあたる110万種が昆虫で占められているのですが、昆虫は生態系の中では意外なほど存在感が薄い生物群であるとも思えます。

 昆虫という種の特徴として、種としては多数になるのですが、一つひとつの種を構成する生物量が少なく、一つの種が絶滅してもそれに代わる種が繁栄して環境には大きな影響が及ばないというものがあります。

 そのためどうしても存在感が薄くなってしまいがちな昆虫ですが、「生態系の血液」といわれるほどの重要な役割を担い、その存在は欠かす事のできないものとなっています。

 多くの植物は昆虫の存在なしには花粉の運搬という重要な営みを行う事ができず、鳥類や爬虫類のエサの過半数は昆虫に依存しています。倒木や落葉などの固い食物繊維やセルロースを含み、分解性が低いものを食べて分解し、再利用可能な栄養素へと戻す働きも昆虫が担い、物質循環という観点での貢献度は計り知れないものがあります。

 また、草食の昆虫は一つの種の植物だけが繁栄する事を妨げて、森や草原の生物多様性の確保にも貢献しているのですが、農耕という一つの種の植物だけが繁栄する事を望む環境下においては、そうした昆虫の働きは邪魔な存在となってしまいます。

 一つの種の植物が大量に繁殖した場合、その植物を専門的に食べる草食の昆虫が大量発生してその植物を食べて数を減らしてくれるのですが、同時にその植物を食べていた草食昆虫を捕食する肉食昆虫の数も増えて、その植物が食べ尽くされてしまう前に草食昆虫の数を減らし、バランスの取れた状態を作り出してくれます。

 そんな自然界の仕組がしっかりと機能していた頃、ほとんど農薬を使わなくても農産物の害虫被害は極めて低いものだったとされます。耕作地の周りの豊かな自然が農作物に被害を与える害虫の天敵を育み、天敵の存在が害虫被害をより小さくしてくれていました。

 今日、農薬を使用せずに栽培すると、害虫被害によってほとんど収穫は望めないものとなってしまいます。害虫を駆除するために使った農薬が周辺の天敵まで駆除してしまい、天敵が不在となった害虫は数を増やし、増えた害虫を駆除するためにより多くの農薬を使ってしまう。そんな悪循環が農薬が欠かせない農業の成立に繋がっています。

 近年、消費者の安全意識の高まりから、無農薬による栽培が求められています。無農薬による安全な作物を栽培するには、品種改良や遺伝子操作ではなく天敵となる昆虫の育成が大切なのかもしれません。


 

第1739回 食べられる?

 かつては食用であったのに、今では食べ物として見向きもされなくなった物、その一つに彼岸花を上げる事ができます。畑の畦などに自生し、秋の訪れを知らせてくれる彼岸花は、花を観賞する事はあっても食用として収穫するという話はほとんど聞かない事と思います。

 彼岸花の食用にされる部分は鱗茎(りんけい)と呼ばれる球根のような部分で、この部分にデンプンが含まれる事から水にさらして食用にします。

 鱗茎というとすぐにニンニクの事が思い浮かび、直接鱗茎を食べられないのかと思ってしまうのですが、彼岸花の鱗茎にはリコリンと呼ばれるアルカロイド系の毒素が含まれる事から、そのまま食べる事はできません。

 リコリンは水溶性なので、彼岸花の鱗茎をすり潰して充分に水にさらし、沈殿したデンプンを食用とするのですが、明治から昭和の初期頃までは、彼岸花からデンプンを精製する専用の会社が存在していたとされ、彼岸花が食用作物として扱われていた事を伺う事ができます。

 彼岸花というと畑の畦や墓場の近くで咲いている姿が思い浮かぶのですが、実はそのような場所で咲いている事には重要な意味があります。

 かつて彼岸花から採れるデンプンは、急場のための貴重な食料でした。そのため畑の畦に植えて、飢饉への備えとしていました。

 畦に植えられていた事にはもう一つ意味があり、毒物であるリコリンをモグラやネズミが嫌う事から、彼岸花を植える事で畦に穴を開けられる事を防いでいます。

 畦は畑にとってダムのような存在で、作物を育てるための水をしっかりと保持するという役割を担っているのですが、モグラやネズミなどによって巣穴を開けられてしまうと、そこから崩れて充分に機能しなくなってしまいます。それを防いでくれるのが、飢饉対策として植えていた彼岸花となっていました。

 また、野生動物は人間のようにさらしてデンプンを得るという食べ方をしない事から、彼岸花は毒草以外の何ものでもない存在となっていました。そのため野生動物は彼岸花そのものを嫌う傾向があり、墓場にたくさん植えておくと野生動物が近付かなくなるというメリットがあります。

 昔は今のような火葬ではなく土葬であったため、死臭を嗅ぎつけた野生動物によって墓が荒らされてしまうという事がありました。彼岸花はそれを防いでくれ、その名の通り彼岸の時期に咲いて墓場を彩ってくれていました。

 それだけ重要な役割を担っていた彼岸花は、日本人との関わりの深さを示すかのように全国各地の地方名を合わせると1000種ほどにもなるとされます。しかし、墓場のイメージが強いせいか、シビトバナ、ユウレイバナ、ハカバナ、ヤクビョウバナ、ドクバナ、ジゴクバナなどよあまり好意的ではないものも多く、それが食べられなくなった理由の一つではと思ってしまうのですが、どちらかといえばトウモロコシやジャガイモなどから安価なデンプンが作られるようになった事が最大の理由となっています。


 

第1738回 糖と老化


 アンチエイジング(抗老化)という観点で、最大の敵となるものは酸化でしょうか。体内で酸化を引き起こす活性酸素はアンチエイジングに限らず、健康を維持する上でも諸悪の根源のようにいわれ、抗酸化作用のある物を摂る事が若々しさを保ち、健康な毎日を過ごす秘訣のようにいわれます。

 最近、老化の原因の一つとして、酸化と同じように「糖化」が言われるようになってきました。糖化というとすぐに思い浮かぶのは加水分解で、デンプンなどの多糖類を分解して少糖類や単糖類にする事と思ってしまいます。

 人のさまざまな器官にデンプンが存在していて、それが加水分解される事があるのかと考えてしまうのですが、老化に関する糖化はデンプンの加水分解ではなく、タンパク質が糖質と結合する事によって変質してしまった「糖化タンパク質」が蓄積して老化が引き起こされていると考えられています。

 糖質は加熱などによって回りのタンパク質と反応し、メイラード反応と呼ばれる褐色を呈する反応を起こします。砂糖を煮詰めてカラメルにしたり、パンをこんがりと焼いてトーストにした際の色合い、焙煎されたコーヒーの色、うなぎの食欲をそそる焼き色などはメイラード反応によるもので、意外と糖化タンパク質が身近な存在である事が判ります。

 糖質もタンパク質も体内では重要な栄養素であり、生命を維持する上で欠かせない存在なのですが、過剰となった糖質が体内の器官を構成するタンパク質と結合してしまった場合、トーストが焼く前のパンと明らかに質感が違うように、異質なタンパク質が各器官に蓄積されてそれまでとは違った状態を作り出す事となります。

 肌にはりがなくなったり、黄ばみやくすみが出る、たるみが現れる事は糖化による老化の現われとされ、実際の年齢よりも老けて見える事の原因は糖化を疑う必要があるといわれます。

 糖化を防ぐには、上手な血糖値のコントロールが大事とされ、適度な運動などを通して血液中の直接的なエネルギー源である糖質を消費して過剰とならない事が重要とされます。

 進化の過程において、初めてともいえる糖質を日常的に過剰なほど摂取できるという状況の弊害ともいえなくもないのですが、血液中の糖分の消費のみを考えて運動を行うと活性酸素が生じて、酸化への備えを要求される事を思うと話は振り出しへ戻ったようにも思えます。酸化と糖化、今後、合わせて考えていかなければならない健康のためのキーワードとなるのかもしれません。


 

第1737回 サトウキビから(2)



 サトウキビから造られる酒、ラム酒は世界中の広い地域で飲まれ、日本でも地酒として造られています。奄美大島で造られている黒糖焼酎は、現在の製法では米麹を使う事から、厳密にはラム酒ではないのですが、伝統的な製法ではラム酒そのものとなっていました。

 奄美大島と同じく亜熱帯の気候を活かしてサトウキビの栽培が行われている小笠原諸島でも、「泡酒」や「蜜酒」と呼ばれて島民に愛され、飲まれていたラム酒があります。盛んに行われていた精糖業によって生じる廃糖蜜を使って作られるインダストリアル・ラムの製造は、開拓の初期の頃に定住していた欧米系の住民から伝えられた本格的なラム酒となっています。

 ラム酒はカリブ海に浮かぶバルバドス島もしくはプエルトリコ島の発祥と考えられ、島の住民が強い酒を飲んで騒いでいる様子を見て、「興奮」の意味を持つ「ラムブリオン」と表現した事が語源となったとされ、カリブ海を荒らしまわった海賊たちや長い航海を行う船乗りには欠かせない存在となっていました。

 サトウキビの栽培地域の拡大に伴ってラム酒も広まり、南北のアメリカやアフリカでも作られるようになったり、原酒を輸入して独自の熟成を加えて出荷する地域も出てきています。

 ハリケーンに遭って難破しそうになった際の恐怖を和らげたり、蒸気機関のボイラー室のような過酷な環境下での作業からくるストレスの緩和にも役立つとして、18世紀にはイギリスの海軍で正式に支給される物資となっています。

 アルコール度数が高いウィスキーを日本国内で販売する際、強い酒に耐性がない日本人でも飲みやすいようにと「水割り」という飲み方が始められましたが、ラム酒にも水割りが存在し、「グログラム」という名称で呼ばれています。

 1742年にイギリス海軍の提督、エドワード・バーノンがラム酒が強過ぎる事から、ラム酒と水を同量で混ぜて支給するように指示したところ、水兵たちには水っぽいと不評で、提督が着ていたコートの特別な生地から「グログラム」というあだ名が薄い水割りのラム酒に付けられています。

 もともとグログラムはバーノン提督のあだ名だったらしく、提督の事を好ましく思っていなかった部下には、「グロッグ」とも呼ばれていました。

 その後、18世紀の末頃には、口当たりがマイルドなグログラムは人気となり、飲みやすい事からつい飲み過ぎてのびてしまうという事が見られました。日本ではのびて倒れてしまう事を「グロッキー」と表現する事がありますが、グロッグによってのびてしまう事をグロッギーと表現していた事から来ているとされます。

 意外なほど日本との関わりが深いラム酒は、私の中ではラムレーズンのイメージから一変してしまったのですが、アンゴスチュラビターズなどのリキュールにも多く使われていて、アンゴスチュラビターズでほんのりとした苦味と香りを付けたカンパリを、トニックウォーターで割った飲み物が本格的なイタリア料理を作った際には欠かせない私にとって、今後とも何かと関わってくる酒の一種ではないかと思っています。


 

第1736回 サトウキビから(1)



 子供の頃というか現在もなのですが、チョコレートに入っているラムレーズンが大好きで、通常のレーズンはそれほど好きという訳ではないので、普通のレーズンとラムレーズンを分けている物、ラム酒には特別な思いがありました。

 大学に入ってからラム酒を買い求め、ラムレーズンの事を思いワクワクしながら味見をした事があります。グラスに注がれたウィスキーよりも少し淡い琥珀色の液体は、強いアルコールのにおいがしますが、確かにラムレーズン特有の香りがします。一口含んだ瞬間、思った事は、これは飲料ではなく燃料だというものでした。

 一口で私のラム酒への思いは一変してしまいましたが、その後、意外な場所、奄美大島で再会する事となります。奄美大島の地酒でもある黒糖焼酎はサトウキビを搾り、発酵させて得られる原酒を蒸留するという正にラム酒そのものといえます。

 酒造りは原料となる植物が持つデンプンやセルロースなどを分解して糖化させる事から始められます。そのためにアミラーゼなどの分解酵素が必要となりますが、サトウキビはもともと大量の糖分を持っている事から、糖化の工程が必要なく、すぐにアルコール発酵から始められるという優れた酒の原料となっています。

 酒造りには最も適しているといえる原料を使って作られるラム酒は、作り方、色、風味などで細かく分類されています。大きな分け方としては作り方による分類法があり、工業的に作られるインダストリアル・ラムと農業的に作られるアグリコール・ラムという分け方があります。

 インダストリアル・ラムは、サトウキビの搾汁から砂糖を作った後に残る廃糖蜜を原料とし、廃糖蜜を発酵させてできた醸造酒を蒸留してエタノールの濃度を高め、それを熟成させて作られる事に対し、アグリコール・ラムはサトウキビの搾り汁をそのまま発酵させて元となる醸造酒を作っています。

 一般的に知られている分類法としては、色による分類法が広く知られていて、無色透明なホワイト・ラム、薄い褐色のゴールド・ラム、濃い褐色のダーク・ラムの3種類に分けられ、日本の酒造メーカーからもホワイトとダークのラム酒が発売されているので馴染み深い分類法なのかもしれません。

 日本ではあまりいわれませんが、ラム酒を風味別に分ける分類法もあり、単に風味だけでなくそれぞれ製法が異なっている点も興味深い分類法となっています。

 軽い風味が特徴のライト・ラムは、糖蜜に水を混ぜて純粋酵母発酵させて醸造酒を作り、それを連続式と呼ばれる蒸留器で蒸留して高い濃度のアルコールになるまで濃縮して、雑味成分がほとんど含まれない状態にします。その後、内側を焦がしていないオーク材の樽に詰めて比較的短い熟成期間で仕上げられ、樽熟成のままだとゴールド・ラム、活性炭で濾過するとホワイト・ラムとなります。

 ライト・ラムに対して濃厚な風味が特徴のヘビー・ラムは、糖蜜や廃糖蜜を自然発酵させ、そこにサトウキビの搾りかすや前回の蒸留後に残った残液などを加えて更に発酵させ、出来上がった醸造酒を単式と呼ばれる蒸留器で蒸留し、内側を焦がしたオーク材の樽かバーボンウィスキーを熟成させた後の樽に詰めて熟成させ、3年以上も時間をかけて熟成させるとダーク・ラムとなります。

 ミディアム・ラムは糖蜜を自然発酵させ、製品によってはそうでない物もありますが、サトウキビの搾りかすを加えて更に発酵させ、連続式の蒸留器を使って蒸留した後に熟成させるという中間的な作り方をするか、ライト・ラムとヘビー・ラムをブレンドして作られます。

 映画、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のヒット以降、世界的に消費量が増えたとされるラム酒ですが、製法や色、風味で好みのブランドを探してみるのも楽しい事かもしれません。


 

第1735回 塩と豚



 SF小説などを読んでいると、たまに天才的なハッカーが銀行などの金融機関のシステムを改ざんし、利息計算の際に生じてはいても実際には表示されない1円未満の端数を自分の口座へ振り込まれるようにするという場面が出てきます。

 また、実際に起こった犯罪として、不正に入手した他人のクレジットカードやキャッシュカードの情報を使い、どこかのサイトのシステム利用料などの名目で低い金額を毎月引き落とす、もしくは直接本人が小口の現金を引き出したように見せかけるというものがありました。

 政治の戦術的手法に、要求を小出しにしながら最終的には本来予定していた要求の全てを実現させたり、政敵を徐々に追い詰めていき、最終的にはその政敵を排除してしまうというものもあります。

 一見、関係のなさそうなSFと犯罪と政治の話しですが、共通するのは小さなものを積み上げて、最終的には大きなものを手に入れるという事で、そうしたやり方を「サラミ法」といいます。

 サラミ法のサラミとはお馴染みのサラミソーセージの事で、サラミを一本丸ごと盗むとすぐに発覚してしまいますが、たくさんスライスされた中から少量を抜き取り、それを繰り返して最終的に一本分の量を抜き取っても発覚しにくい事からその名が付けられています。

 サラミはイタリアに端を発するドライソーセージの一種で、その歴史は極めて古く、一説には紀元前5000年前のメソポタミア文明にまで遡るといわれ、世界各地の食文化にしっかりと根ざしている食材ともいえます。

 豚の挽肉にラード、ラム酒、塩を混ぜ合わせて腸詰にしてから、低温でじっくりと時間をかけて熟成させます。味付けの基本が塩である事から、サラミの語源はイタリア語で塩を表すサラーレにあるとされます。

 製法が限定されている訳ではなく、出来上がりの質感からサラミと呼ばれる事が多く、そのためハーブやスパイスを練り込んだ物や、熟成させる前にソーセージのように燻したり、茹でたりする製法のサラミも存在しています。

 原料も豚のみに限定されない事から、牛肉のサラミや牛と豚の合挽き肉のサラミもあり、イタリア以外の地域でも広く造られていて、ソーセージの本場であるドイツやハンガリー、フランス、スペインなどは有名なサラミの名産国となっています。

 ほとんどのサラミは作られている地方や国名で呼ばれる事が多く、名品とされる物にはフランスのアルルやイタリアのジェノヴァ、ミラノ、ハンガリーなどが知られています。

 イタリアの食文化というとピザやパスタが思い浮かびますが、イタリアから遠く離れたアメリカで唐辛子を効かせたサラミをイタリア語の唐辛子を意味する「ペペローナ」の複数形、「ペペローニ」から「ペパロニ」と呼ぶようになり、ピザやパスタの素材として使われるようになったのは、どこか運命的なものが感じられ、食文化の奥深さを実感させてくれます。


 

第1734回 千年のミッシング



 当地熊本には南の隣県、鹿児島との県境付近に日本では南限となる清酒の酒造メーカーがあります。今日では酒造環境の温度を人為的に操作する事は容易ですが、そうした設備がない時代には熊本よりも南になると気温が高く、清酒の醸造には向かなくなり焼酎が造られるようになります。

 焼酎はスピリッツと呼ばれる蒸留酒に分類され、暖かい地域の特産かというとそうでもなく、北欧のアクアヴィット、ロシアのウォッカ、アイルランドやスコットランドのウィスキーなど寒い地域にも多くの蒸留酒が存在しています。

 蒸留酒はその名の通り、一旦、醸造した醸造酒を蒸留して作られます。蒸留という技法については、すでに紀元前3000年には存在していたとされ、メソポタミアにおいて花の蜜を集めて精油成分を取り出して香水を作るための器具として蒸留器が発明されていました。

 蒸留器を使って醸造酒を蒸留したのは、現在のエチオピアにあたる古代アビシニアの事とされ、当時主流となっていた醸造酒、ビールを醸造したのが紀元前750年頃の事と考えられています。

 古代ギリシャのアリストテレスは、「海水を蒸留すれば飲める水を得る事ができる。それはワインにおいても同じ事である」と語り、醸造酒を蒸留する発想が存在していたともいえますが、飲み水を得るためという発想では蒸留酒とは縁が遠いようにも思えます。

 その後、1000年以上も醸造酒を蒸留するという記録は途絶え、13世紀のスペイン、14世紀のフランスでワインの腐敗に悩まされていた当時の人々がワインを蒸留する事によって腐らない高いアルコール度数の酒を得て、流行していたペストの治療に使ったという記録が登場します。

 また、13世紀の半ば、フランスのヴイューヌーヴは「ワインの蒸留酒には生命を永らえさせる不思議な力がある」として、ワインを蒸留して得られる蒸留酒に「生命の水」を意味する「オードヴィ」と命名しています。

 オードヴィという名前は各地に影響を与え、北欧の「アクアヴィット」、イギリスの「ウィスキー」、ロシアの「ウォッカ」の語源となっています。それに対し、イギリスの「ブランデー」、ドイツの「ブラントヴァイン」、日本の「焼酎」は「焼いた酒」という意味の言葉で、蒸留という技法に由来した名前という事ができます。

 ヴイューヌーヴによる命名でしたが、すでにワインを蒸留した蒸留酒の存在は知られていた事は容易に想像され、アリストテレス以降、どのように人が蒸留酒と接してきたかについては完全な謎となっています。

 1000年もの間、蒸留酒が人の話題に上らない事については、蒸留によって得られる物が水とエタノールの混合物という、樽によって熟成するという技法なしでは味わいに欠ける物であった事や、初歩的な蒸留では不純物によって嫌な風味が残されてしまう事が考えられます。いずれにせよ、いつの日か1000年分の謎が明らかになる日を楽しみにしたいと思ってしまいます。


 

第1733回 朝の健康食



 子供の頃に見た絵本に味噌は中国から伝えられ、船で運搬される途中で味噌が入れられた樽の様子を見た際、片隅に溜まった黒っぽい液体を発見し、それが醤油の発見となったと描かれていました。

 しかし、最近の研究では味噌は伝えられたのではなく、日本において独自に生まれ、発展してきた可能性が強くなってきています。

 味噌は穀物を原料とした発酵食品であり、醤(ひしお)の一種として穀物から作られる事から穀醤に分類されます。奈良時代の文献には「未醤(みしょう)」として登場し、発酵の途中で未熟な豆の粒が残る物であった事が判ります。

 日本における製塩は縄文時代に始まった事が確認されており、貴重な食料である穀物を塩蔵で保存するする事、保存中に穀物が自然発酵する事は充分に考えられます。味噌の原形となる醤がそうして形成されていた事が推測されます。

 そうして各家庭で作られていた醤は、発酵が未熟な段階で食べられる事もあり、それが味噌となっていき、中世には「手前味噌」という言葉が生まれるほど、家庭に浸透した調味料となっていました。

 その味噌が日本を代表するスープ、味噌汁に発展するのは室町時代の事とされます。室町時代になると、各地で味噌が発達して保存食として食べられるようになり、戦国の世を迎えると兵糧として重宝され、貴重な栄養源とされるようになります。

 簡単な調理で大量に作る事ができ、栄養のバランスも取れる味噌汁は陣中食としては理想的な物であったという事ができ、戦国時代に陣中食として考案されたとする説も存在します。

 鎌倉時代の文献に味噌をすり鉢で細かく挽いて、お湯で溶くという調理法が残されているので、味噌汁の原形と見る事ができます。さまざまな文献から戦国時代の味噌汁はご飯に味噌を乗せ、お湯をかけたお茶漬けのような物であった事が伺えるのですが、戦国武将の一人、石田光成の言葉に「熱湯に焼き味噌をかき立てて飲めば、終日米がなくとも飢えたる事なし」というものがあり、 味噌汁が汁物料理として成立していた事も確認できます。

 戦国の世が終わって江戸時代に入ると、シジミや納豆、豆腐といった味噌汁の具材となる物を売り歩く物売りが定着し、味噌汁は日常の物となっていきます。

 その時々の旬の素材によって作られてきた味噌汁ですが、食材が身の回りに溢れた今日、これまでにないさまざまな食材で作る事ができ、味噌という調味料の応用性の広さや味噌汁という料理の懐の深さを感じさせてくれます。伝統的な和の食材にとらわれず、身近なさまざまな物で楽しむ事ができるそんな日常の料理、それが味噌汁の醍醐味なのかもしれません。

 朝の味噌汁はその日の難逃れという言い方もあり、健康を管理する上で大切な働きをする朝食であった事が伺えます。和食の健康効果が再評価される中、味噌汁はその代表となりえる物といえます。日本の朝の代表的な料理、これからも意外ともいえる食材を使ったさまざまな楽しみ方をしてみたいと思っています。


 
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にんにく卵黄本舗の健康コラムです。
食と健康をキーワードに最新の医療情報から科学技術、食文化や献立まで毎日更新で幅広くお届けします。是非ご覧ください。

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