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第1752回 コーヒーの謎(2)



 コーヒーがいつ頃から、どのようにして愛用され始められたかについては、本当にたくさんの説があってはっきりしません。コーヒーの起源に関する多くの伝説を見ていくと幾つかの傾向がある事が判り、それぞれの特徴別に大きく分けていくと三つに集約できる事が判ります。

 最も有力とされているのがヤギ飼いの少年カルディのエピソードで、ヤギが夜も眠らずに興奮状態で跳ね回ってばかりいる事に困ったカルディが村の修道士に相談したところ、修道士はその話に興味を持ち、夜、こっそりとヤギの様子を観察してみると、ヤギたちが潅木の赤い実を食べている事を発見します。

 その実を持ち帰って搾り、汁を飲んでみると軽い興奮状態になって眠れない事から、夜間の行の際、眠気が大きな妨げとなる事から、毎日、その実の汁を飲み、眠気を抑えていたところ健康状態も良くなった事から、他の人たちの間にも浸透していったというものです。

 次の説は「シーク・オマルの伝説」と呼ばれるもので、「モカの街の守護聖人」といわれたアル・シャジーリの弟子であったシーク・オマルが王女に恋心を抱いてしまった事から街を追放され、山中で食べ物を探していると美しい鳥の声に誘われて真っ赤な木の実を見付け、他に食料となりそうな物もないのでその実を煮て煮汁を飲んだところ、気分が晴れ晴れとして落ち込んでいた気分も蘇ってきた事から愛用するようになります。

 シーク・オマルは後に赦されてモカの街に戻る事になるのですが、真っ赤な実が持つ薬理効果に注目して、山中にいる頃から病人の治療に使っていたともいわれ、その後、コーヒーの普及に努めたとされます。

 第三の説は。南イエメンの中心都市であったアデンの律法学者であった「シェーク・ゲマレディンの伝説」と呼ばれるもので、アビシニアを旅したシェークがその地に自生するコーヒーの事を知り、アデンに戻った後、体調を崩した際にコーヒーの事を思い出し、取り寄せて試してみると気分が晴れて体調も回復した事からコーヒーの薬理効果に着目し、特に覚醒効果に優れていた事から夜間の行に励む修道士に薦め、その後、昼の暑さを避けて夜に旅をする商人や職人へと広まったとされます。

 カルディの伝説は、1671年に発行されたファウスト・ナイロニの著書、「コーヒー論 その特徴と効用」の中でオリエントの説話として紹介されたものが原点とされ、シーク・オマルの伝説とシェーク・ゲマレディンの伝説は、1587年に発行されたアブダル・カディールの著書、「コーヒーの合理性の擁護」と題された写本が元とされます。

 「コーヒーの合理性の擁護」は、コーヒーを専門的に扱った書物としては現存する最古の物とされ、コーヒーの広まりと迫害について記された唯一の書籍ともされます。元となった文献については、アブダル・ガファルが書いたとされますが、ガファルによる文書は現存しないためにコーヒー史上の謎の一つとなっています。

 成立年代を見てみると、カルディの伝説は9世紀の事とされ、シーク・オマルの伝説は13世紀、シェーク・ゲマレディンの伝説は15世紀の事と考えられ、後にたくさんのコーヒーに関する著書が登場する中、1935年のウィリアム・ユーカーズの著書、「オール・アバウト・コーヒー」の中ではもっとも信憑性が高い伝説としてシェーク・ゲマレディンの伝説を紹介しています。

 9世紀にイランの哲学者にして医者であったアル・ラーズィーが、医学的な知識や見聞きした民間療法を集大成した「医学集成」に、コーヒーの事を指す「ブン」とコーヒーの煮汁である「バンカム」が登場し、当時、すでにコーヒーの飲用が行われていた事が判ります。

 三つの伝説の重要な部分には、すべて修道士が関わっています。修道士という観点からコーヒーの利用を見てみると、6世紀頃にはすでに一部の神秘主義者の間でコーヒーの実を潰して丸薬とした物や、実や葉を煮出した物が秘薬として愛用されていたとされます。

 7世紀に入りコーランの時代を迎えると、コーヒーの摂取についてイスラム法的な規定がなかった事が問題となり、法学者の間でコーヒーを巡る論争が行われています。その際、コーヒーが軽い興奮作用を持つ事から、アルコールに準じる物として排斥されています。

 こうした史実を見ると、コーヒーは三つの伝説のはるか以前から愛用されていた事が判ります。コーヒーの始まりとされる数多くの伝説、その原点ともいえる三つの伝説がすべて誤りであったのかと思えてくるのですが、コーヒーの利用が極めて限られた一部の事であった事を考えると、それぞれの地域で個別にコーヒーの発見が行われ、地域的な広がりを見せたという、どの伝説も正しかった事が思われてきます。


 

第1751回 コーヒーの謎(1)



 大好きなコーヒーについて以前、とても疑問に思っていた事があります。それは映像などでよく見かける真っ赤に熟したコーヒーの実、あれは食べないのだろうかというものでした。

 映像で見る限り熱帯の強い陽射しを受けて真っ赤に育ったコーヒーの実は、果物としての充分な価値を持っているように見え、食用にしない事が不思議なようにも思えます。

 コーヒーの木は、アカネ科に属する常緑樹で、3~5m程度の高さに成長します。真っ白なジャスミンに似た花を付け、花が散るとやがて真っ赤な実が育ちます。その実は外見的な特徴から「コーヒーチェリー」とも呼ばれる事もあり、サクランボに似たいかにも美味しそうな姿をしていて、その実の中に一対の黄土色の種子があり、それがコーヒー豆となります。

 コーヒーの実から取り出しただけのコーヒー豆は、乾燥させて挽いても渋くて苦い、とても飲めないコーヒーしか入れる事ができず、ロースターで焙煎してはじめて今日のような美味しいコーヒーを入れる事ができるようになります。もし、コーヒーの実が食べられない物であったら、如何にして中の種子に目が行ったのかと余計に疑問が高まってしまいます。

 コーヒーの実の食用については、コーヒーの歴史を調べるとすぐに解決します。コーヒーがいつ頃から愛用されていたのかについては、諸説があってはっきりしませんが、コーヒーの品種の一種であるアラビカ種が自生していたエチオピアのアビシニア高原では、ガラ族と呼ばれるオロモ人によって古くから愛用されていたとされます。

 オロモ人によるコーヒーの利用は、果や葉をすり潰して獣の脂身と混ぜて団子状にした携帯食であったとされ、コーヒーの実が食用であった事が判り、オロモ人はコーヒーを薬草としても扱っていたとされます。

 コーヒーの愛用が文献上、最初に登場するのは575年、ササン朝ペルシャの記録に、「アラビア人はコーヒーの実や葉を煎じて飲料を作る」という記述が残されていて、食べ物から飲み物へと変化していた事が判ります。

 その後、コーヒーはイスラム教徒、特に神秘主義の修道者との結び付きを深め、眠気を醒まし、さまざまな欲求を遠ざけて修行に集中する力を高めてくれる秘薬として扱われます。

 神秘主義者の秘薬とされた事や、コーヒー自体の美味しい飲み方が確立されていなかった事もあり、コーヒーの普及はその後、それほど進まず、14世紀の初頭から約半世紀をかけてイスラム圏全域を旅し、各地の風俗を詳細に記録したイブン・バトゥータの「三大陸周遊記」には、コーヒーに関する記載が一切登場しておらず、コーヒーが薬理効果を求める秘薬以外の何物でもなかった事を伺う事ができます。

 今日、世界中で飲まれ、もっとも好まれる飲料の一つであるコーヒーが、どのように始まり、どのように広まったのか、それについては、必ず最初に「諸説があり」という前置きをするしかなく、謎多き飲料としかいう事ができなくなっています。


 

第1750回 キング オブ 肉



 肉というと真っ先に思い浮かぶのは「牛肉」でしょうか。しかし、世界的に描かれる一枚肉のイラストを見ると、その特徴から豚肉である事が判り、肉の代表格といえば豚肉ではないかと思えてきます。

 以前、アメリカのテレビCMで、中世の貴族たちが豪華な料理が並べられたテーブルを囲み、そこへ連れてこられた毒見役が豚肉の料理を一口食べ、急に苦しみだして倒れてしまい、貴族たちが慌てて部屋から逃げ出すと死んだはずの毒見役が起き上がり、にっこり微笑みながら豚肉の料理を独り占めするというものがありました。

 全米豚肉普及協会の制作による、独り占めしたくなる美味しさが豚肉にはあるという内容のものですが、よく考えてみるとあえてそうしたCMを放映しなければならないほど、豚肉の消費が伸びていない事を示しているように思えます。

 実際、アメリカ人やアメリカ在住が長い方から、「あえて肉を食べるのであれば牛肉を選ぶ。豚肉は選ばない」といった意見を何度か聞かされた事があります。

 そのため、豚肉の消費は牛肉や鶏肉に比べて、それほど大きくはないのではとも思えてくるのですが、主要国における牛肉の年間消費量が約6000万トン、鶏肉が約6800万トンである事に対し、豚肉は9500万トンと1.5倍近い量を消費している事には、少々驚かされてしまいます。

 猪を家畜化した豚は古くから食べられていて、古代ギリシャやローマでも盛んに食べられていました。肉質が柔らかく、繁殖力が旺盛で、一回の出産で10匹ほどの子豚が生まれ、一年後には大人に成長する豚は、非常に優れた家畜であるといえ、古代ローマでは高級食材として富裕層を中心に、肉といえば豚肉の事を指していました。

 古代ローマへの豚肉の供給は、主に現在のドイツやデンマークにあたるゲルマニア地方で飼育されていて、ローマ帝国滅亡後も豚の飼育は続けられ、ゲルマニア地方の伝統となります。

 ヨーロッパ各地でも豚の飼育は行われ、中世には都市部でも多くの街で飼育されていました。当時の豚は今日のものとは異なり、剛毛で牙を持つ原種の猪に近いものであり、パニックを起こして暴走し、怪我人が出るという事故もよく見られていたとされ、フランス国王ルイ6世の長男、フィリップ王子は馬で移動中、暴走した豚に突進され、落馬して命を落としている事からも当時の豚が野生に近いものであったかを伺う事ができます。

 ヨーロッパの各地で飼育されていた豚ですが、すべての土地で年間を通して充分なエサの確保ができる訳ではなく、特に伝統的な豚の飼育地ともいえるゲルマニア地方では、厳しい冬を乗り切る事は人であっても容易ではなかった事は充分に理解でき、実際、冬を前に繁殖用の豚を残し、ほとんどを食用にするという事が見られていました。

 食用に回された豚の肉は、保存用に加工され、年間を通しての大切な食料となりました。豚肉を使った保存食でもっとも一般的な物として「ハム」の存在が知られ、塩漬けにして保存性を高めるという工夫は各地で行われていました。

 ハムの語源はゲルマニア地方の言葉で「太もも」を意味する言葉にあるとされ、主にもも肉が使われていた事が伺えます。大きな肉片が採れる部位は、適当な大きさに切り分けてハムに加工しますが、それ以外の部位は細かく切って腸詰にし、ソーセージにします。

 背肉やバラ肉は冷す事で水分を抜き、保存性を高めるという工夫が行われ、現在のフランスにあたるガリア地方の言葉で背肉やバラ肉を意味するベーコンとされました。

 そうして豚肉を加工する多くの知恵が蓄えられ、牛肉や鶏肉とは違った用途の広さが豚肉の圧倒的な消費量の元となっているといえます。豚肉というとトンカツやしょうが焼きばかりが思い浮かび、ハムやソーセージ、ベーコンなどを数に入れていなかった事を思わず反省しながら、肉の王者は豚肉と再評価してしまいます。


 

第1749回 フォークの時代



 11世紀にパスタを巻き付けて上品に食べるための食器として誕生したフォークですが、ナポリの北方にあるモンテカシノ修道院の壁画を写したとされる写本に、フォークを使って食事をする二人の人物が描かれ、普及に順調な滑り出しを見せたようにも感じられます。しかし、ある理由によって、フォークの普及は大きく妨げられる事となっていました。

 そのある理由とは、宗教関係者による強力な反発で、「食べ物とは全て神から与えられた恵みであり、その神の恵みに触れる事ができるのは、神が創った人間の手だけである」という宗教観が元となっていて、食事は全て手掴みで食べる事こそが正しい作法であり、神の恵みを突き刺して食べるという事は、神への冒涜に値するといわれると、当時の宗教観を考えると納得してしまうものがあります。

 実際、後にヴェネチアの総督となるドミニコ・シルヴィオの妃に東ローマ皇帝のロマヌス三世の妹がなった際、祝宴で妃が金で作られた二又のフォークを使って小片に切り分けた料理を一口ずつ食べていた様子が物議を醸し出し、後に妃が病に倒れると、多くの聖職者がフォークを使った事による神罰としてふれ回った事からも、当時の宗教観とフォークの関わりを窺い知る事ができます。

 歴史上、フォークを毛嫌いしたもっとも高名な人物となると、「太陽王」として知られたフランスのルイ14世ではないかと考えられます。保守的な傾向が強かったルイ14世は、生涯、手掴みによる食事を実践していただけでなく、孫に当たるブルゴーニュ公が上手にフォークを使って食事をする姿を見て、烈火のごとく怒り、以後、一切のフォークの使用を許さないと怒鳴り付けたとされています。

 その後、ヨーロッパではさまざまな革命が繰り広げられますが、フォークの使用は急速には普及せず、料理を切り分ける際はナイフとフォークを使い、食べる時点では手掴みするという使い分けが行われていました。

 18世紀の半ばを迎えた頃、産業革命によって庶民の生活が向上し、政治的にも発言権が強まってくると、貴族たちは庶民との差別化の意味で急速にフォークを使うようになり、ナイフとフォークを上手に使って食事を行う事が上品という考え方の基礎が作られます。

 今日でいうテーブルマナーに従って食事を行う事が高貴であり、手掴みは卑しいという主張が展開されますが、それでもフォークの使用への反発は根強く、「単なる流行に流された軽薄な行為である」「女々しい」と評価する風潮は19世紀に入ってからも続き、1879年には、当時、軍部でもっとも重要視されていた海軍においてナイフとフォークの使用が禁じられています。

 食事中の会話が喧嘩に発展し、ナイフとフォークが凶器になってしまう事を懸念したためともいえますが、根底には海軍の軍人たる者がフォークを使って食事をするとは男らしくないという考え方があったとされ、フォークの使用が当たり前の事となるには20世紀を待たなければならなかったといえます。

 今日でこそナイフとフォークを使ったテーブルマナーが確立され、あまり馴染みのない日本人の私達はコース料理を前に困惑し、緊張してしまいますが、そうした歴史的背景を考えると、それほど固くならなくても良いのではと思ってしまいます。


 

第1748回 巻いて美しく



 フォークというと基本的な食器として定着していて、通常は単体で使われたり、ナイフと一対になって食材を切り分けながら食べる事に使われたり、パスタを食べる際はスプーンと一対になって、長いパスタを巻きながらソースを絡める事にも使われていて、汎用性の高い便利な食器である事が判ります。

 特にナイフとの取り合わせは象徴的な意味でも使われ、ナイフとフォークが並べられているマークを目指せば、食事をする事ができる店へと向かう事ができ、ヨーロッパでは「ナイフとフォーク」といえばそれだけで食事を意味する言葉となっています。

 それだけ日常生活に深く根付いているフォークですが、食器としての歴史は意外なほど浅い物といえ、今日のように世界的に普及するのは近代になっての事で、形状と使用法が単純な割には遅い登場に驚かされてしまいます。

 今日、最もフォークとして馴染み深い形状である4本歯のフォークの登場は、18世紀のイタリア、ナポリ王国の事で、スパゲティを食べるための食器として発明されました。

 当時のナポリ国王フェルデぃナンド4世は気さくな人物であり、庶民の風俗を深く愛していました。宮廷にも庶民の暮らしを取り入れようとし、庶民の食べ物であったスパゲティを毎日供する事を命じていました。

 その頃のスパゲティは手掴みで食べられていて、一塊りを掴むと長く垂れ下がった麺を頭上にかざし、下からすすって食べられていました。その頃としても、とても王族や貴族が行うべき作法ではなく、特にフェルディナンド4世の妃は、名門として名高いハプスブルグ家出身でマリア・テレジアの娘であり、マリー・アントワネットの姉でもあるマリア・カロリーナであった事から、そのような作法が受け入れられる事もなく、上品にスパゲティを食べる工夫が料理長であったジョバンニ・スパダッチーノに命じられています。

 いろいろと思案の末、スパダッチーノは料理を口元に運ぶ物ではなく、料理を取り分けるための物だったフォークに目を付け、フォークを使ってスパゲッティを食べる事を提案します。

 その際、今日でいうところの工業デザイナーにあたる職にあったチェーザレ・スパダッチーニが、突き刺して食材を安定させて切り分ける事だけを想定していた3本歯のフォークを、安全性が高くスパゲティが絡みやすいように先を短くした4本歯のフォークを考案し、フェルディナンド4世に進言しています。

 その後、使いやすいように今日のような弓なりのカーブをつけたフォークが18世紀の中頃にドイツで考案され、今日の定番スタイルである弓なりの4本歯のフォークが一般的に使われるようになるのは、19世紀の初頭とされます。

 日常の食材の中で、加熱調理を行った後、硬くて切り分けにくい食材となると肉類が真っ先に思い浮かびます。肉類を突き刺して固定するための物として、直線的な形状の二又のフォークは今日の調理用の切り盛りフォークとして見る事ができます。

 単純な二又のフォークの起源は先史時代にまで遡り、6000年前のトルコのカタル・ホユック遺跡や中国の新石器時代の遺跡からも発見されています。

 フォークという語源については、ラテン語の「フルカ」が語源となっていて、「首かせ」や「絞首台」と意味を同じくしています。単純に突き刺して食材を固定する事を目的とした物であり、食材を口元に運ぶという細かな働きをするものではなかった事が判ります。

 文献上、最も古いとされるフォークに関する記載は、旧約聖書の「出エジプト記」に登場する「肉刺し」とされ、犠牲を捧げるための肉を刺して固定する器具として登場します。

 日常の食器としてより祭儀用の性質が強いフォークは、今日の切り盛り用フォークのような直線的で二又の物であった事が考えられます。スパゲティを美しく食べる、そのニーズこそが今日のフォークを生んだといえます。

 フォークはさまざまな用途に合わせて微妙に形状が異なる物が存在し、その用途に応じた名前が付けられています。スパゲティを食べるための先が短い4本歯のフォークがスパゲティフォークと呼ばれる物ではなく、基本的な形となっている事には、これこそがフォークの完成形といえるのかもしれません。


 

第1747回 新潟のイタリアン



 蒸した太めの麺をもやしやキャベツと共に多めにひいた油で炒め、ソースで味を付けるというと「ソース焼きそば」と思えるのですが、仕上げにさまざまな具材が入ったトマトソースをかけると新潟県の中越地方や下越地方特有のご当地グルメ「イタリアン」になります。

 イタリアンといっても麺にデュラム小麦のセモリナ粉が使われている訳でもなく、オリーブ油もワインも使われてはいません。小麦粉にかん水を加えて練り上げ、こしとつやのある麺を蒸して仕上げる典型的な中華麺が使われ、強いて上げれば最後にかけるトマトソースがイタリアしているというところでしょうか。

 イタリアンの歴史は1959年、新潟市の甘味喫茶「みかづき」から始まります。みかづきのオーナー、三日月晴三が箱根で行われる経営者セミナーに参加するために上京した際、東京都中央区京橋の甘味処「中ばし」で出された大阪風の焼きそばをアレンジしたソース焼きそばにヒントを得て、パスタ料理のようにフォークで食べる焼きそばをイメージしてイタリアンを考案しました。

 翌年の1960年にはみかづきの正式なメニューとなったイタリアンは、同じ商業セミナーで学ぶなど以前から三日月氏と親交があった「長岡饅頭本舗」の経営者である木村政雄にレシピが伝えられ、長岡市の甘味処「フレンド」でも販売されるようになり、新潟市のみかづき、長岡市のフレンドの二店によって初期イタリアンの普及が図られてきました。

 1961年、新潟市内の小学校で開かれる文化祭でみかづきがバザーに模擬店を出す事となり、イタリアンを売り出したところ口コミで評判が広まり、イタリアンはみかづきの売り上げの中心的存在にまで成長しています。

 その後、みかづき、フレンドの両社から麺やソースなどの一般向け販売が行われ、イベントなどへの出店強力も展開された事から、1960年代の後半にはイタリアンの知名度が一気に上昇し、中越、下越地方の文化祭やバザーの模擬店でイタリアンを見掛ける機会が増え、両社のチェーン展開もあって地元で親しまれるご当地グルメの一品となっています。

 元は一つであっても新潟市と長岡市という離れた土地で成長してきたみかづきとフレンドのイタリアン、似ているようで微妙な違いがあり、独自性を発揮しているとされます。

 みかづきのイタリアンは、断面が角型の太麺を使ったソース焼きそばに、トマトの酸味とタマネギの甘味がベースとなったソースをかけ、塩漬けにされたショウガの千切りが付け合せとして添えられ、基本コンセプトの一つであったフォークで食べる物となっている事に対し、フレンドのイタリアンは、断面が丸型の中細麺が使われ、仕上げにかけられるトマトソースも挽肉入りのミートソース、付け合せも紅ショウガとなっていて、割り箸が添えられています。

 また、基本的なセットにした場合、みかづきのイタリアンにはフライドポテトと飲み物が添えられる事に対し、フレンドの基本セットはギョウザと飲み物が添えられるという違いがあります。フライドポテトとギョウザという違いは、使用する食器にも影響を与え、みかづきがフォークというコンセプトを守り通した事に対し、フレンドはギョウザゆえの割り箸となっています。

 みかづき、フレンドをはじめ、それ以外の店舗からも新潟県外への普及が図られ、イタリアンだけでは判り辛いためか「新潟イタリアン」「イタリアン焼きそば」と称して販売されていますが、まだまだ全国的な知名度は低くなっています。ソース焼きそばにトマトソース、誰からも好まれる物の組み合わせなので、いずれ全国的な人気メニューとなるのではと思いながら、ご当地グルメとしては地域性が強い方がと相反する事を思ってしまいます。


 

第1746回 和の中華



 私的には冬場でも全然問題ないのですが、夏季限定色が強い冷し中華は、その名前や盛り付けの雰囲気などから中華料理のような感じがしてしまうのですが、日本が生んだ美味しい夏の麺料理となっています。

 中国、香港、台湾などでは、冷麺や涼麺、冷拌麺や涼拌麺と呼ばれる温かくない麺料理が数多く存在しています。冷や涼という言葉が当てられていても、いずれも日本の冷し中華とは趣が異なり、日本人からすると生温く感じられるものとなっています。

 中国では食品を直接冷水や氷を使って冷す習慣がなく、風を当てて粗熱を取った程度のものに冷や涼が当てられているためで、ピーナツペーストやすり胡麻を使った濃厚なタレをかけて食べられています。

 そうした麺料理の中で、「鶏絲涼麺(チースーリャンメン)」は細く割いた茹でた鶏肉と千切りのキュウリが麺の上に盛り付けられ、すり胡麻を使ったタレがかけられる事から、胡麻ダレの冷し中華の原形のようにも思えるのですが、冷し中華において重要なさっぱり感を演出する酸味において大きく異なる物となっています。

 中国では温かくない料理に酸味がある事を、腐敗による酸味と捉える事から、上海の冷拌麺といった一部の例外を除き、酸味がある冷たい料理は好まれないものとなっています。

 冷し中華が最初に文献に登場するのは、昭和4年(1929年)の事で、「料理相談」という料理本の中に「冷蕎麦(ひやしそば)」として記載され、シナそばを茹でて酢、砂糖、氷をまぶし、その上に焼き豚、キュウリ、ラッキョウ、タケノコを乗せて冷たくしたスープ、しょうゆ、酢、コショウをかけると紹介されています。

 その7年後の昭和11年(1936年)に発行された雑誌、「栄養と料理」には、「三絲涼麺(サンスーリャンメン)」として冷水にさらした麺の上に鶏肉、焼き豚、キュウリを細切りにして盛り付けた上に、酢と砂糖、しょうゆで作ったタレをかけて食べる料理が紹介されていました。

 翌年の昭和12年(1937年)には、仙台市の錦町の龍亭において「涼拌麺」が発売されています。当時、中華料理店共通の悩みであった夏場の売り上げ不振の解消法を仙台支那ソバ同業組合の会合において協議した結果、仙台七夕の際に売れる目玉商品の一環としてザル蕎麦を元に開発されたのが冷し中華の原形ともされますが、現在の冷し中華と異なり、茹でたキャベツや塩もみしたキュウリ、薄切りのニンジンなどが使われ、戦後の食糧難を迎えるまでは人気メニューとなっていました。

 現在の冷し中華に最も近い存在といえるのは、東京の神保町にある揚子江菜館で出されていた「五色涼拌麺」で、昭和8年(1933年)もしくは第二次世界大戦後に創作されたとされ、さまざまな素材を細切りにして彩りよく放射状に盛り付ける手法は、この頃に確立されたとされます。

 2代目のオーナーである周子儀がザル蕎麦から着想したとされますが、原点には中国では例外的な存在であった冷たく、酸味を持った上海の冷拌麺がありました。

 上海の冷拌麺は茹でて冷した麺の上にもやしと細切りにした肉が乗せられていて、それを涼感溢れる具材を増やす事で豪華にしたものが今日の定番スタイルとなったと考えられます。皿の真ん中にこんもりと盛った麺の上に放射状に細切りの具材を盛り付ける特有の形式は、富士山とその山頂に積もる雪が元になったとされます。

 また、京都の中華のサカイでは、昭和14年(1939年)の創業当初から冷麺をメニューとしていたとされ、胡麻ダレを使ったものであった事から、関東の冷し中華とは別系統の流れが存在していたとも考えられます。

 しょうゆベースの甘味と酸味を利かせたタレについては、戦後、後に大手ラーメンチェーン店に成長する寿がきやにおいてところてんのつゆを冷したラーメンの麺にかけた事がはじまりとされ、身近な食べ物であり、それほど歴史が古いとも思えない冷し中華の発祥が意外なほど混沌としている事が判ります。

 1975年、冬場に冷し中華を食べられない事に憤慨したジャズピアニストの山下洋輔が、SF作家の筒井康隆やタレントのタモリと共に「全日本冷し中華愛好会」を立ち上げています。強力なサポーターに見守られる事となった冷し中華、いずれ正式な歴史が語られる事となると期待しています。


 

第1745回 ひまつぶし?



 当地熊本でうなぎといえば、蒲焼、うな重、うな丼、蒸篭蒸し、う巻きが主流で、かつては「ひつまぶし」をメニューに載せている店自体が少なく、そのため新たにオープンしたうなぎ料理専門店の店先に大きなメニューを書いた看板が掲げられ、その中にひつまぶしの文字を初めて見た際、思わずひまつぶしと読んでしまい、意味不明に思えた事があります。

 ひつまぶしは主に名古屋市や三重県の津市周辺で食べられていた郷土料理とされ、細かく刻んだうなぎの蒲焼を小さめのお櫃(ひつ)に入れられたご飯の上に乗せて出されます。

 お櫃の中でうなぎとご飯を混ぜ合わせてから茶碗に取り分けて食べられる事からその名が付けられたとされますが、関西方面ではうなぎを「まむし」と呼ぶ事から、「ひつまむし」から転じたという説もあり、実際、本場の名古屋で「ひつまむし」と言ってもちゃんと通用するといいます。

 ひつまぶしの発祥は名古屋市の熱田区にある「あつた蓬莱軒」もしくは、中区にある「いば昇」とされ、当初は普通のうなぎ料理として一人前ずつ瀬戸物の茶碗に盛り付けられていたのですが、出前で配達した後、器を回収する際に乱雑に扱われて割られてしまう事が多かったため、割れにくく、複数の人数分を合理的に供する事ができるひつまぶしのスタイルが考案されたとされています。

 ひつまぶしにおいてうなぎが細かく刻まれて供されている事については、お櫃から取り分ける際、均等に分けられるようにという配慮から始まったとされますが、細かく刻んだうなぎについては、浜松市や津市に安定的なうなぎの供給を行う養殖が存在しなかった以前から存在するとされます。

 養殖が開始される以前、天然のうなぎの品質にはかなりのバラつきがあり、品質の良くないうなぎを賄い食として消費していた事は容易に想像できます。硬く、ゴムのような食感のうなぎを食べる工夫として、細かく刻むという事は浜松や津市では古くから見られていて、ひつまぶしの原点と見る事もできます。

 ひつまぶしには三通りの食べ方があるとされます。最初はそのまま食べ、二杯目は薬味をかけて変化を持たせ、三杯目はお茶漬けにしてそれぞれの美味しさを楽しみます。

 質の良くない硬いうなぎを細かく刻み、手早く食べられるようにご飯と混ぜ合わせてお茶漬けにするという工夫は、うなぎを扱う店の賄い食にはありがちな事といえます。最近、賄い食を正式なメニュー化するという、裏メニューの表メニュー化の話をよく聞きます。ひつまぶしもそんな歴史をを持つ食べ物かと思えてきます。

 ひつまぶしという名称については、1987年に元祖とされるあつた蓬莱軒より商標登録が行われ、知的所有権が生じています。多くの店でひつまぶしというメニューを見掛けますが、あえて商標権の論争に至らない事は、うなぎという高級食材を扱いながらひつまぶしが身近な存在である事を表しているようにも思えます。


 

第1744回 検証、天ぷら犯人説(2)


 鯛の天ぷらを食べた晩に体調を崩し、そのまま回復する事なく命を落としてしまった事、江戸城での天ぷらの調理禁止、長崎や京都、大阪では高級料理であった天ぷらが江戸では下賎な食べ物とされ、江戸前という優れたネタの供給源を持ちながら普及に100年も掛かってしまった事、それら全ての事が武家社会の頂点ともいえる徳川家康の命を奪った物が鯛の天ぷらである事を示しているように思えます。

 江戸城で天ぷらがご法度として調理が禁止されていた本当の理由は、かつて大奥の侍女が天ぷらを揚げていた際、天ぷら油に引火して火事を起こしかけた事があり、火事への警戒が天ぷらをご法度とさせていました。

 天ぷらは煮る、焼く、炒めるといった調理法よりも遥かに高い温度を使い、火の上に可燃性のある多量の天ぷら油があります。当時の竃は今日のガスコンロやIHヒーターのように火加減や温度の調整が容易ではなく、油の精製度も低かった事から油煙も多く出ていたため、引火しやすい状況にあった事が考えられ、そうしたリスクを犯しても食べるほどの価値を天ぷらに感じられていなかった事が最大の理由のように思えます。

 引火の危険性以上に油煙の多さは、焼けた油の嫌な臭いを多量に発生させてしまう事となり、天ぷらを屋外での調理、屋台の料理としてしまい、その事が天ぷらを下賎な食べ物というイメージにしていました。長崎や京都、大阪と比べて天ぷらが普及するまでに長い時間を要する結果となってしまった背景には、そうした天ぷら事情がありました。

 また、茶屋四郎次郎の説明の中に「粉」や「衣」といった言葉が登場しない事から、家康が食べたのは本当に天ぷらだったのかという疑念も出てきます。

 家康が亡くなる16年前に編纂された「大草家料理書」や27年後に書かれた「料理物語」には、「鯛の南蛮焼き」が登場し、「鯛を油にて揚げる也」や「鯛を焼いて豚の脂で揚げた後、煮る」といった記載が出てきて、当時、鯛を素揚げする料理の存在を伺う事ができます。

 家康が食べたのは、そうした鯛を揚げ焼きにした「鯛の南蛮焼き」であった可能性が高く、厳密には天ぷらではなかった可能性が高いように思えてきます。

 家康が鷹狩りを行い、油を使った鯛料理を食べて体調不良に陥ったのが1月の21日。それから駿府城で養生を続け、一向に回復する事なく亡くなったのが4月の17日と、あまりにも食中毒にしては療養期間が長過ぎるという不自然な部分があります。

 亡くなるちょうど一月前、家康を太政大臣に任ずる宣命が下り、その10日後に勅使が駿府城を訪れると上座に据えて対面し、29日の城中での能楽の催しに至るまで、衣冠束帯で一切姿勢を崩す事もなく、とても病人とは見えなかったという記録が残されていて、単なる食中毒とは捉えられていなかった事が伺えます。

 結局、4月17日の午前10時頃に息を引き取る事となるのですが、近年、病状の特徴から死因は胃ガンである可能性が示唆されてきていて、鯛を食べる前から病状は進行していた事が考えられるようになってきています。食中毒と胃ガン、3ヶ月の長きに渡って患ったといわれると、やはり胃ガンに軍配が上るように思えてきます。


 

第1743回 検証、天ぷら犯人説(1)

 日本史において三英傑というと織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ですが、三名の中で死因がはっきりしているのは、家臣であった明智光秀による下克上によって討たれた織田信長だけではないかと思えます。

 豊臣秀吉の晩年は病に伏せり、日を追う毎に病状が悪化して回復する事なく生涯を終えています。秀吉の命を奪った病が何であったのかについては現在でも不明とされていて、近年、症状の特徴や時代背景から「脚気」ではなかったのかといわれてきています。

 徳川家康はというと、広く「鯛の天ぷら」による食中毒と言い伝えられています。家康は当時としては長寿とされる75歳(満73歳)まで生きていて、他の英傑2名、信長の49歳、秀吉の63歳と比べても圧倒的に長寿であった事が判り、その秘訣は食にあったとされるだけに、食によって命を落としたのであれば皮肉な感じがしてきます。

 元和2年(1616年)1月21日、現在の藤枝市にあたる駿河の田中で大好きな鷹狩りをしていて、京都の豪商、茶屋四郎次郎の参謁を受けます。家康と四郎次郎は古くから親しい間柄にあり、本能寺の変をいち早く家康に知らせ、脱出、後退する手引きをしたほどの仲で、その場で二人はさまざまな話をしています。

 その会話の中で家康の「最近の上方で何か面白いものはないか」という問い掛けに四郎次郎は、「近頃の大阪や京都では、鯛をカヤの油で揚げ、薬味としてニラを細かく刻んだものをかけて食べるのが人気です。私も試しにいただきましたが、実に美味しいものでした」と答えました。

 興味を持った家康は、たまたまその日、榊原内記清久から献上された能浜の見事な鯛があった事から、さっそくその鯛を使って調理するように命じ、出来上がった上方風の料理を食べています。

 その晩から腹痛が始まり、田中の城では充分な養生ができないと考えた家康は、急いで駿府の城へと戻り、自らの調剤知識を活かした自家調剤の薬での治療に専念します。途中、自己流の治療を侍医が諫めたりもしたのですが、その侍医を信州に流罪にしてまで自らが信じた治療法に専念しています。しかし、高齢という事もあり、回復する事なく偉業を成し遂げた戦国武将としての生涯を閉じてしまいます。

 そのため家康の死因は鯛の天ぷらによる食中毒とされ、江戸城では天ぷらはご法度とされて調理が許されなかった事や、長崎や京都、大阪では高級料理であった天ぷらが、江戸では下賎な食べ物とされ、普及が100年も遅れてしまった事が、武家社会の頂点の命を奪った物が天ぷらであった事を物語っているようにも思えます。


 
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