第1762回 進化のジレンマ



 最近、とても興味深い話を聞きました。生物には病原菌をはじめとする外来の異物に対し、免疫力を働かせる事で健康な状態を保っています。また、一定の遺伝子上に作用するウィルスによる全滅を防ぐために雌雄による遺伝情報の交配を行い、遺伝的な多様性を持たせるという工夫を行っています。

 母親の胎内に生じた新たな生命、胎児は母親由来の遺伝情報を有してはいますが、半分の情報は父親からの情報であり、それは母親の免疫系から見れば異物以外の何物でもなく、免疫系の攻撃対象となってしまいます。

 胎児が自らの遺伝情報を継承しながら、他の遺伝情報を併せ持って遺伝的多様性を持つ事で、より安定的に自らの遺伝情報を残そうという相反する策略を実現するというものですが、他から得た遺伝情報が外来からの異物として免疫系に判断されないように独自の仕組が用意されていた事が最近の研究で判ってきています。

 胎児の成長にとって重要な役割を果たす「胎盤」は、「HLA-G」と呼ばれる遺伝子を調整する事によって、免疫を司るナチュラルキラー細胞やT細胞などの免疫細胞からの攻撃を回避し、異物として排除されないようにしています。

 また、臓器移植を行った際、生命の維持に欠かせない移植臓器であっても、体にとっては自らの本来の臓器ではないため異物と判断されてしまい、免疫系による攻撃を受けて拒絶反応となってしまいますが、稀に全く拒絶反応が見られない事があります。その際、移植臓器の細胞内ではHLA-Gが活性化していて、免疫系の攻撃を回避しているとされます。

 そうしたHLA-Gによる免疫系からの攻撃回避を利用しているのは胎盤や移植臓器だけでなく、卵巣ガンや悪性黒色腫、乳ガンなどの腫瘍細胞もHLA-Gを活性化させて免疫系による排除を免れるという仕組を利用しています。

 生物の究極の目的はより多くの子孫を残す事といえ、その目的の達成をより確実なものとするために複雑な進化を遂げてきています。その進化の中で獲得した子孫の生存率を高める工夫が「胎生」で、他者の遺伝情報を持つ異物を体内に宿して守り育てる事でより効率的に子孫の生存率を高めています。

 胎生によって子孫を守るためにHLA-Gを活性化させるという仕組が出来上がったのですが、同時に悪性腫瘍による疾患に罹患してしまう可能性も生じてしまいました。

 生命を維持していく上での大きなセキュリティホールともいえる危険性を併せ持つ胎生は、子孫を守り育てる最良の方法とはいいがたい部分があり、同じ種であっても進化の過程において胎生と卵生を行き来している形跡を見る事ができ、次世代をより確実に残す事と悪性腫瘍のリスク排除との間のジレンマのようなものを感じる事ができます。

 次世代を大切に守り育てようとする母心ともいえる仕組を悪用する悪性腫瘍、そう考えるとかなりの悪者のように思えてきます。


 
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第1761回 添え物の妙



 決して主役となる事はないのですが、料理に添えられる「薬味」は、存在感という点ではかなり大きなものがあると思います。

 薬味は、少量を料理に加える事で、料理の味を引き締めたり、香りを添える事で食欲を増進したり、料理自体の印象を変えるほどの彩りを与えたりするという役割を担っています。香味野菜と呼ばれる事もありますが、鰹節などが薬味として使われる事もあるので、必ずしも植物性の物がその役割を担うとは限りません。

 薬味という言葉の響きから、どうしても和食を連想してしまいますが、西洋料理や中華料理でも使われていて、世界的に料理の美味しさを演出する技法の一つとなっています。

 普段、何気なく使っている薬味という言葉ですが、良く考えてみると食材の香味をうまく活用するものなのに「薬」の「味」という不思議な呼び方がされています。

 薬味は、もともと医学用語として使われていました。1世紀の中国で書かれた「神農本草経」に、「食べ物には五味があり、それぞれに応じた効能がある」と記されていて、甘味、塩味、酸味、辛味、苦味といった味覚から食べ物を分類し、個々の体質や病態に応じた食を通した健康についての考え方が示されています。

 この五味が薬味と呼ばれるようになり、医食同源の考え方との融合が図られ、料理に少量を添える事で健康管理が行える物として使われるようになっていきます。

 薬味として使われている素材を見ると、殺菌力を持つニンニクやワサビ、ネギや消化を促す大根おろしやショウガ、唐辛子などが含まれ、薬効としての充分な機能も備えている事が判ります。

 暑い季節を迎え、下がりがちの食欲を支えるのは、料理に添えられた薬味の役割ではないかと、ちょっとした工夫とその大きな効果に感服してしまいます。


 

第1760回 一手間の妙



 簡単、お手軽レシピが人気となっています。料理は日常の事であり、できる事なら簡単でお手軽にできたに越した事はないので、手早くできる料理のレシピは大変ありがたく思えます。

 昔と比べると電子レンジや圧力鍋をはじめとした調理器具の発達もあって、昔と比べるとずいぶんと料理は手軽にできるようになったと思えます。しかし、そうした手軽さとは別に、一手間かける事でより美味しくなるのは、昔から料理の常となっています。そうした一手間の代表が「面取り」ではないかと思えます。

 面取りとは、切り分けた食材の角を取る事で、輪切りや乱切りなどの比較的大きめに切った野菜などの食材を丸みを持った形にする事を指します。

 面取りは料理を仕上げる上で絶対的に必要な作業かというとそんな事はなく、省いても問題なく仕上げる事ができるので、むしろ余分な作業のようにも思えます。

 面取りをする理由は、面取りをする事で煮込んだ際に荷崩れが起こりにくくするというものがあります。煮込んでいく際、軟らかくなる食材の最も崩れやすい角をあらかじめ取っておく事で煮崩れを極力防ぎ、煮汁が濁るのを防いでいます。

 また、荷崩れが起こると同じ食材でありながら、火が通りにくい塊と火が通りやすい崩れた部分が煮汁の中に存在する事となり、塊に充分に火が通る前に煮崩れた部分は煮過ぎた状態になってしまい、食材によっては煮過ぎた臭味が出てしまう事にも繋がってしまいます。

 面取りをして食材に丸みを持たせる事は、食材の表面積を増やす事にも繋がり、煮汁と接する面積が増える事から、味の染み込みが早くなり、食材のそれぞれの面から中心部への直線距離が一定に近くなるので、味のムラを防ぐ事もできます。

 荷崩れのないすっきりとした煮汁でムラなく煮上げられ、美味しく仕上げられるだけでなく、細かい事にまで気を配っているという印象を与える事ができる事も面取りのメリットともいえるのかもしれません。省略しても大して問題のない面取りですが、その一手間の効果の大きさを思うと、和食の調理技法の奥深さを思ってしまいます。


 

第1759回 ドライの謎



 日本人にとっての主食、米は、通常は普通に炊飯した「ご飯」の状態で食べられていますが、軟らかく炊いた「お粥」、具材を一緒に炊き込んだ「炊き込みご飯」、味付けをした具を混ぜ込む「混ぜご飯」、酢で酸味を付けた「酢飯」、「寿司飯」、さまざまな具と炒めた「炒飯」、汁物をかけた「丼物」や「カレー」、粉に挽いて「麺」や「パン」など、非常に汎用性の高い食材であるという事ができます。

 そうした汎用性の高さから、さまざまな国の食文化を取り入れ、多彩な料理へと変貌する事が可能で、米のそんな一面がインドの食文化、カレーと融合して独自の発展を遂げる事で「ドライカレー」という日本固有の食文化が開花したと考える事ができます。

 ドライカレーはその名の通り水分量が少ない、ドライなカレーの事なのですが、単に水分が少ないといっても大きく分けると3つのスタイルのドライカレーが存在しています。

 最も古い歴史を持つと考えられるドライカレーは、挽肉とタマネギ、ジャガイモ、ニンジンなどの野菜をみじん切りにした物を炒め、カレー粉で味を付けて水分がなくなるまで煎り付けるというもので、昨今、流行したキーマカレーに似ていますが、水分量がずっと少なく、どちらかといえばカレー味の肉そぼろといった物をご飯に乗せていただきます。

 肉そぼろタイプのドライカレーは、明治時代、日本郵船の客船「三島丸」の食堂において正式メニューとして採用されており、現存するメニューが1911年の物とされるので、すでに100年以上もの歴史を持っている事が判るのですが、船内において日本人シェフによって考案された事以外、誰がいつ、どのようにして考案したのかについては謎となっています。

 第二のドライカレーは食べやすい大きさに切った肉や野菜を炒め、そこへご飯を加えて炒め合わせ、カレー粉によって味付けをするもので、カレー炒飯とも呼ばれる物で、由来については不明となっています。

 炒飯タイプのドライカレーは、銀座の老舗焼き鳥店、「鳥繁」の創業当時のメニューに記載されていたとされますが、同店において考案されたのではなく、カレー粉持参で訪れた客の注文によって作られ、それ以降、定番メニュー化されたとの事なので、すでに存在していた事が考えられます。

 第三のドライカレーは、細かく切った肉や野菜と生の米を炒め、カレー粉で味を付けた後、ブロード(ブイヨン)を少しずつ加えながら炊き上げて仕上げます。カレーピラフともいえるもので、こちらも由来は不明となっていますが、ピラフが一般的に普及した後の登場と考えられる事から、最も歴史が浅いドライカレーではないかと考えています。

 日本のインド料理店で出されるメニューに、日本のドライカレーによく似た「ビリヤニ」という物が存在します。本来、ビリヤニはグリーンカルダモンやシナモン、クローブなどのさまざまなスパイスを使って炊いたバスマティ米のご飯を用意し、炒めたタマネギとヨーグルトをベースにした鶏肉かヤギの肉の煮込み料理を作り、深くて広い鍋に二つの料理を少しずつ幾層にも敷き詰め、その上から澄ましバターの一種である「ギー」をふりかけ、水で溶いた小麦粉の生地を使って鍋と蓋を密閉し、蒸し上げて仕上げられるという非常に手の込んだ料理で、ドライカレーとは趣の異なる物となっています。

 しかし、ビリヤニ本来の調理法を行っていると、注文を受けてから作りはじめるという事や、1、2人分などの少人数用の調理には全く適さない事から、作り方が簡略化され、注文を受けてからご飯と具材を炒め合わせて手早く味付けする物へと変化しています。その際、参考とされ、影響を与えたのがドライカレーで、本家のインド料理に影響を与えたというあたり、日本のカレー文化もずいぶんと成熟したものだと思ってしまいます。


 

第1758回 合わせとシベリア



 漁港牛深へドライブすると、新鮮な魚介類以外にもいろんな楽しみがあり、その一つに牛深の郷土菓子「合わせ羊羹」があります。合わせ羊羹は白いんげんの一種である「大手亡」を使い、赤く着色された羊羹を和菓子に合うように工夫された白いスポンジで挟んだ和菓子で、パッと見は生のマグロの赤身をパンで挟んだサンドイッチのようにも見えるのですが、豆の豊かな風味がして、素朴で美味しい和菓子となっています。

 その合わせ羊羹によく似た物として、「シベリアケーキ」があります。シベリアケーキは羊羹をカステラで挟んだもので、色合い的に黒い合わせ羊羹のように見えます。

 シベリアケーキは、単純にスライスした羊羹をカステラで挟んだ物かというと、実はそうではなく、薄く焼いたカステラをトレーに敷き、まだ固まっていない溶けた状態の羊羹を流し入れた後、カステラを被せて冷して固めます。

 そのため、シベリアケーキのカステラは羊羹によって接着された状態にあり、容易に剥がす事はできなくなっていて、カステラを焼き、羊羹を準備するという非常に手のかかる和菓子である事が判ります。

 シベリアケーキが主に食べられているのは、首都圏を中心とした東日本と中部地方となっていて、西日本ではあまり見られない食べ物となっています。大手製パン会社から全国的に販売されていますが、出荷の中心は東日本に偏っているといわれます。

 特定の店において考案された物ではなく、地方の名産が広まった物でもないとされ、かなり歴史は古く、大正時代には喫茶店の前身となるミルクホールで食べられていた事が確認されています。

 シベリアと名乗っていますがシベリア原産ではなく、名前の由来については羊羹をシベリアの黒い永久凍土に見立て、カステラで氷を表現したとも、シベリア鉄道の線路を現しているともいわれ、シベリア出兵にちなんだともいわれます。

 シベリアケーキの原点には、愛知県松山市の郷土菓子、「タルト」があるのではとする意見もあり、薄く焼くか焼いたカステラを薄くスライスした生地で餡を巻くというタルトを、より庶民的にした物がシベリアケーキであるとされ、タルトがロールケーキのようば外観を持つ事に対し、羊羹カステラと呼ばれる羊羹の四方をカステラで巻き寿司のように巻いた物も存在する事から、タルトが羊羹カステラを経由してシベリアケーキとなったとも考える事ができます。

 タルトは長崎探題職にあった松山藩主の松平定行によって、長崎から伝えられています。天保4年(1647年)に国の統治者が代わった事を伝えるために、入港したポルトガル船によって伝えられた南蛮菓子に原点があるとされます。

 今のところ酷似するシベリアケーキと合わせ羊羹の間に関連性を示す資料は存在していませんが、ポルトガル船によって長崎に伝えられた南蛮菓子が原点にあるのであれば、両者は同じ進化の過程を経てきたように思え、その成立について詳しく記した資料はないものかと大いに興味をそそられてしまいます。


  

第1757回 5大系統考(3)



 カレーの歴史と系統を考える上で欠かせない存在として、タイ王国があります。タイ人の先祖はもともと中国の雲南省の山岳地帯で農耕を行って生活していたのですが、漢民族などの北方民族の南下を受けて各地への移住をはじめ、9世紀頃までに現在のタイ王国があるインドシナ半島へ移住しています。

 そのため、タイ料理の原点には中華料理があるとされ、中国人によって日干しや油を使った調理方法、中華鍋や蒸篭が伝えられたとされます。四川料理との類似点が多いともいわれ、辛味が強い料理が多い理由の一つと考える事もできます。

 タイ人は外国からもたらされる食文化を、在来のタイ料理と融合させる事が得意で、さまざまな国の食文化を取り入れながら独自の料理として発展させてきています。

 タイ料理に欠かせない素材であり、今日のカレーにも不可欠な素材である唐辛子が持ち込まれたのは17世紀の事で、ポルトガル人の手によって持ち込まれ、瞬く間にタイの食文化に浸透しています。

 同じ17世紀、インドの仏教僧によってカレーが伝えられていますが、タイでは入手が困難な素材もあった事から、インドと同じレシピは使われず、乳製品はココナツミルクで代用され、多くのスパイスがレモングラスやバイマックルートなどのハーブに置き換えられました。

 タイのカレーはインドのカレーと違って、多種多様なスパイスを組み合わせて独自の風味を作るのではなく、新鮮な生のハーブを多く使って風味を出し、唐辛子をふんだんに使って非常に辛い味にしています。

 通常、タイのカレーには乾燥させた物ではなく、生の唐辛子が使われ、インドのカレーで多く使われるターメリックを使用しない事から、黄色い色合いではなく、赤唐辛子を使った場合は赤いカレーになり、緑唐辛子を使った場合は緑色のカレーに仕上がる傾向があり、香りとこくを出すためにナンプラーが使われる事も特徴の一つとなっていて、完全に南北のインドとは異なる存在となっています。

 カレーの5大系統の最後は、インドをはじめとするアジアの国々を植民地化していたヨーロッパで、インドのカレーがヨーロッパの伝統的な煮込み料理であったシチューなどと結び付き、独自のヨーロッパカレーが生まれています。

 インドでのカレー作りは、素材に合わせてスパイスを調合し、その都度、スパイスを挽いていましたが、合理的なヨーロッパ人は、毎回スパイスを挽かなくても済むように、あらかじめ粉末化したスパイスを調合しておくという、カレー粉を考案しています。

 インドでは素材ごとに別々のカレーを作る事が一般的であった事に対し、ヨーロッパでは肉や野菜といった素材が全て一緒に煮込まれ、ご飯の上に最初から直接かけて盛り付けられるようになっています。

 カレー粉を使って味付けする事が一般的となり、スパイスの風味と辛味は控えめで、伝統的にシチューやスープに使われてきたフォンやブイヨン、スープストックなどが取り入れられ、肉や野菜、ハーブなどを長い時間をかけて煮込む事で、深みのある味を出す事が大切とされ、南北インド、タイとも一線を画す物となっています。

 日本のカレーはヨーロッパのカレーを元にしていますが、小麦粉を使ってとろみを付ける事が大きな違いとなっていて、一般家庭で作る際は、多くの場合、固形のカレールーを使うを使う事、家庭によっては鰹節などの日本独自の物が使われ、味噌やしょうゆ、ウスターソース、ヨーグルトやチョコレートなどの多彩な隠し味が存在する事も特徴となっています。

 カレーにとって重要なスパイスである唐辛子は南米の原産で、新大陸の発見がなければインダス文明に端を発したカレーが唐辛子と出会う事はありませんでした。

 インドで生まれ、新大陸から持ち帰られてヨーロッパを経由して持ち込まれた唐辛子を取り込み、タイで激辛となり、ヨーロッパへ伝えられて煮込み料理となり、日本へと渡って国民食となったカレー。インダス文明から始まるカレーの長い旅は、ヨーロッパを経由しているだけに最も遠い土地は日本であるように思えます。その日本で最近、キーマカレーが人気となっていました。キーマとは肉の事で、キーマカレーとは「肉のカレー」の事を指しています。素材ごとにカレーが作られるというインドのカレーに戻ったようで、長い旅の途中、ひと時の里帰りをしているようにも思えます。


 

第1756回 5大系統考(2)



 インドの伝統食がイギリスを経由して日本へ伝えられ、日本人の好みに合わせたアレンジが行われながら独自の進化を遂げ、日本風カレーともいえる一つのスタイルが確立されています。今日、カレーは世界中で食べられていますが、大きく分けると5つの系統に分ける事ができ、日本風カレーはその中の一つという事ができます。

 インドではいつ頃からカレーが食べられていたのか、はっきりとした事は判っていませんが、カレーに使われるスパイスの栽培は、インダス文明の頃にはすでに始められていました。

 インダス文明は新石器時代に西アジアから移住してきたドラヴィダ人によって興され、ドラヴィダ人はメソポタミアやエジプトとも交易を行っていた事から、中東で栽培されていたスパイスがインドへ持ち込まれ、スパイスをたくさん使うインド料理の原型が作られたと考えられます。

 紀元前1700年頃になるとインダス文明は衰退し、紀元前1500年頃には遊牧民であったアーリア人がインド北西部へ移住してきて、ドラヴィダ人はアーリア人によって征服され、征服を逃れた一部のドラヴィダ人はインドの南部へと移住しています。

 アーリア人はインドに移住すると遊牧を止め、定住して農耕を行うようになり、インドは北部と南部では異なる文化圏を持つようになります。インダス文明によって原型が作られたカレーは、アーリア人の食文化を取り入れ、北部と南部では異なる料理として独自の発展をみせるようになります。

 その後、北部と南部の交流や東南アジアとの交易もはじまり、東南アジアのスパイスや食文化がインドにもたらされ、カレーはより複雑なスパイス使いを行う料理へと進化していきます。

 インドの北部と南部では民族やインダス文明の影響の有無といった違いだけでなく、気候や環境、宗教的な影響などの食文化を形成する背景が大きく異なっています。そのため、同じインドでありながら、系統の異なるカレーを生み出す事となります。

 インドの北部は、インダス文明以降に移住してきたアーリア人が中心となり、中世にはイスラム勢力の支配下にあった事から、中東の料理の影響を強く受けています。日本のカレーのようにカレー粉は使わず、カレーの種類によって多種多様なスパイスを組み合わせて使用し、一度に肉のカレー、野菜のカレー、豆のカレーなど複数の素材ごとの風味が異なるカレーを作り、一緒に食べるのが定番のスタイルとなっています。

 スパイスの風味は強めですが、辛味は南部ほどではなく、乳製品も多く使われます。日本で見かけるインド料理は、北部のものがほとんどで、日本人には馴染み深いインドのカレーともいう事ができます。ヒンドゥー教とイスラム教が入り混じった地域でもあるので、ヒンドゥー教で神聖な生き物とされる牛とイスラム教で食べない豚を除く、羊と鶏が使われるのも特徴となっています。

 インドの南部のカレーは、ドラヴィダ人の食文化を色濃く残し、中東よりも東南アジアの食文化の影響を色濃く受けています。北部と同じくカレー粉を使わず、調理の度に数多くのスパイスが組み合わせて使われます。

 辛味は北部のカレーよりも強く、ターメリックが多く使われる事から、外見的には日本のカレーに近い物のようにも見えます。最近、日本でもココナツミルクを使ったカレーを見かけるようになってきましたが、ココナツミルクの使用は南部の特徴でもあり、少数派であったインド南部の食文化が広がってきたようにも思えます。

 肉類は北部と同じく羊と鶏が中心ですが、南部は海が近い事もあり、魚介類が多く使われ、また、ベジタリアンも多い事から野菜や豆類のカレーも多く作られています。

 カレーと一緒に食べられる物についても、北部ではパンに相当するナンやチャパティが合わせられ、南部では細長いインディカ米が主流となっています。

 発祥の地、インドで2つの系統に分かれてしまうのかと思ってしまうのですが、さまざまな背景とカレーという料理の奥深さを思うと、それも充分にありえる事なのかと納得してしまうものがあります。


 

第1755回 5大系統考(1)



 カレーというと国民食でもあり、老若男女を問わず人気のメニューといえます。日本人とカレーとの出会いは、江戸時代の末期、日本が長く続いた鎖国を解き、尊王攘夷運動が盛んになった頃と考えられています。

 日本でカレーが登場する最古の文献は福沢諭吉の「増訂華英通語」とされ、アメリカで購入した英中辞典を元に発音をカタカナで表記した中に「コルリ」として紹介されています。

 英単語の一つとして紹介されているだけなので、福沢諭吉がカレーを食べたかについては疑問が残り、貿易港に作られた外国人居留地に出入りする限られた者だけが、当時、カレーを食べたと考える事ができます。

 日本人がカレーを食べたという最も古い記録は明治4年(1871年)の事で、国費留学生としてアメリカへと向かう船の中、船酔いと慣れない西洋料理に苦しみ、食欲不振に陥った山川健次郎が何とか食べられる物はないだろうかと食堂のメニューを見回し、その中から米が使われているので、これならばと選んだのがカレーであったとされます。

 その翌年の明治5年(1872年)には、「西洋料理指南」「西洋料理通」においてカレーのレシピが紹介され、明治6年(1873年)には陸軍の幼年生徒隊の食堂の昼食メニューに採用されています。一般の庶民向けとしては、明治10年(1877年)に東京の洋食屋、「風月堂」において初めて正式メニューとされています。

 明治36年には、現在の「ハチ食品」に当る大阪に「今村弥」において国産初のカレー粉が製造販売され、このあたりから日本のカレーは独自の進化を遂げていく事となります。

 日本のカレーは発祥の地となるインドから直接伝えられたものではなく、インドを植民地化していたイギリスを経由して伝えられたもので、それから更に独自の進化を遂げた事から、世界のカレーの中で一つの系統として確立された物となっています。

 世界中で食べられているカレーは、大きく分けると5つの系統に分ける事ができます。その一翼を担うのが日本のカレーであり、完成度の高さも含めて世界に誇れる食文化ではと思っています。


 

第1754回 原子爆弾と台所



 得意料理は?と聞かれると、いろいろと考えた末に、こだわりも含めて、「オムライス」と答えてしまいます。本当にそうなのかと自問自答してみると、愛用のフッ素樹脂加工のフライパンではなく、鉄やアルミのフライパンを使った場合はいつものように上手に卵を焼けない事を思い、便利さに慣れ過ぎてしまった事を反省してしまいます。

 フッ素樹脂加工は特許を持つ米国、デュポン社の商標から「テフロン」とも呼ばれ、1938年にデュポン社の研究員であるロイ・ブランケットによって発見されています。

 今日、テフロンというとデュポン社の製品に限らず、フッ素樹脂加工された多くの製品の事を指しますが、厳密にはテフロンはクロロフルオロカーボン類の研究中に発見されたテトラフルオロエチレンのボンベ内に固着していた樹脂であるポリテトラフルオロエチレンの事を指します。

 化学的に安定性が高く、耐熱性、耐薬品性にも優れたテフロンが最初に注目されたのは、世界に先駆けて核兵器の保有国となるために米国が国家的プロジェクトとして取り組んだ「マンハッタン計画」の際で、核燃料を製造する際に使用される設備のパッキンやライニングの素材として使われました。

 核燃料の製造過程で使用される六フッ化ウランは、非常に強力な腐食性があり、取り扱いには大変な危険が伴っていたのですが、安定性が高く、腐食に強いテフロンを使用する事によって安全に六フッ化ウランを取り扱う事が可能となり、原子爆弾の開発に大きな役割を果たしたとされます。

 その後、安定性の高さだけでなく摩擦が小さい事や、絶縁性が高い事もあって、さまざまな化学的、機械的用途に応用されていき、やがて日用品にも応用範囲が広がり、フライパンをはじめとした調理器具の表面加工に使われ、革命的な使い勝手の良さをもたらしてくれます。

 最初の頃のテフロンは非常にデリケートで、使用に際して注意が必要でした。ポリプロピレンなどの耐熱性のある軟らかい樹脂製のヘラでしか調理する事ができず、簡単に傷が付いて、そこから表面のコートがはがれてしまうという事も珍しくはなく、私も最初のテフロン加工のフライパンを、砕かずに入れてしまったコンソメのキューブを砕こうとしてヘラでコンソメのキューブを叩いた際、コンソメの角で傷を入れてしまい、そこからテフロンが剥離してダメにしてしまった事があります。

 最近では、そうしたテフロン加工の弱さは随分と改善され、先端が鋭くなければ金属製の器具も使う事が可能となっています。それでもテフロン加工を傷めてしまう理由の多くは、ヘラなどの器具や洗い方などではなく、火力と料理を入れたまま放置してしまう事にあるとされます。

 テフロン加工の調理器具の多くには、火力を「中火以下で」と指定してあります。テフロンは耐熱性があるとはいっても350度以上になると分解してしてしまい、260度あたりから劣化が始まるとされます。

 強火による調理や空焚きは、テフロンを傷める最大の要因とされます。また、テフロン加工の表面には目に見えない小さな穴が無数にあり、料理を入れたまま放置すると水分がその穴の中に入り込み、温め直しなどで加熱した際、内部で膨張してテフロンを剥がして表面の滑らかさを奪ってしまいます。

 火力を中火以下で調理するようにして空焚きをしない、料理は入れたままにしない、急激な温度変化を避けるために、調理終了直後の熱い状態で水洗いをしないなどに気を付けておくと、比較的長くテフロン加工のフライパンを使う事ができます。

 気を付けて優しく接していても、やがてテフロンの性能が落ちてきて寿命を迎えます。油をほとんど使わなくても焦げ付かせずに調理できる、テフロン加工は調理の手軽さに革命的な変化をもたらしましたが、同時にそれまでの鉄や銅、アルミといった素材の調理器具とは比較にならないほどの短い期間での交換が必要となるという、新たな概念をもたらしたともいえるのかもしれません。


 

第1753回 洗濯事情



 大好きな時代劇を見ていると、下町の長屋の風景として井戸の付近で、井戸端会議よろしく長屋の住民が集まり、いろんな話をしています。

 単純に住民が集まって話をしているだけでなく、井戸のそばだけに水を使った日常的な作業も行われているのですが、その日の食卓に上る野菜を洗ったり、洗濯をしたりという場面が多く使われていて、泡を立てながら洗濯板を使って洗濯をしているシーンを見掛けると、それはないでしょうと突っ込みを入れたくなってしまいます。

 石鹸が日本に伝えられたのは安土桃山時代の事で、ポルトガルから伝えられた「しゃぼん」が日本初の石鹸となります。しゃぼんを利用できたのは、社会の極めて上層階級の人か医療関係者だけで、庶民が日常的に利用できる物ではありませんでした。

 当時、江戸の庶民が洗濯に使っていたのはムクロジの皮やサイカチの実、灰汁、米の研ぎ汁などのアルカリ性を持つ物で、今日の石鹸ほどの泡立ちを持つ物ではありませんでした。

 洗濯板についても登場するのは明治時代の中期の事で、江戸時代に主流となっていたのはたらいを使った手もみ洗いで、板などにこすり付けて洗うという概念は存在していませんでした。洗い方自体もそれほど泡が立つものでもなく、泡にまみれたゴシゴシ洗いの洗濯板のシーンはありえないものである事が判ります。

 日本での石鹸に関するもっとも古い文献は、慶長元年(1596年)の石田光成が博多の豪商、神屋宗湛に送ったしゃぼんへの礼状とされ、江戸時代の文政7年(1824年)には蘭学者の宇田川榕菴によって日本初の石鹸の製造が行われています。

 しかし、見方を変えるとその頃の石鹸は石田光成ほどの人物がわざわざ礼状を書くほど貴重な物であり、その後、250年以上も国内では製造されず、国産初の石鹸も医療用とされた事から、とても庶民が気軽に使える物ではなかった事が伺えます。

 江戸時代、多くの人に好まれた遊びに、「しゃぼん玉」があります。細い竹の筒を吹くと五色に輝く透明な玉が飛び出し、風に乗って飛んでいく様子や一瞬で消えてしまう潔さが日本人の好みに合うものとなっていたのですが、当時のしゃぼん玉に用いられていたのは石鹸ではなく、ムクロジや芋がらを焼いた粉を水に浸したものでした。

 日本で商業レベルでの本格的な石鹸の製造が開始されるのは明治時代なってからの事で、横浜磯子の堤磯右衛門によって明治6年(1873年)に日本初の石鹸製造所が開設されています。

 創業当初は洗濯石鹸が作られ、翌年には化粧石鹸が製造されるようになり、磯右衛門による石鹸の製造は、最盛期には香港や上海へも輸出され、第一回内国勧業博覧会で花紋賞を受賞したり、時事新報主催の優良国産石鹸の大衆投票で1位を獲得するなどしましたが、磯右衛門の死去から2年の後となる明治26年(1893年)に廃業されました。

 磯右衛門の下で石鹸作りに勤しんだ門下の者によって、今日の大手メーカーである花王や資生堂が設立されて石鹸の製造が続けられ、後の石鹸の普及に繋げられています。

 今日、泡立ちと泡切れの良い液体石鹸や全自動洗濯機、衣類乾燥機に慣れ親しんだ身としては、洗濯石鹸や洗濯板による洗濯は極めて原始的なものに感じられてしまいますが、意外なほど近代のものである事に驚かされていまいます。


 
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にんにく卵黄本舗の健康コラムです。
食と健康をキーワードに最新の医療情報から科学技術、食文化や献立まで毎日更新で幅広くお届けします。是非ご覧ください。

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