第1803回 酪酸事情



 酪酸というと、健康成分として話題となった「GABA(γアミノ酪酸)」が思い浮かびます。最初に話題になった頃は、発芽玄米に含まれる成分で、血圧を安定させる働きがあるとされていましたが、しばらくするとチョコレートに多く含まれ、ストレスを和らげる成分として知られるようになっていました。

 それ以外で酪酸というと、あまりよいイメージがありません。秋が深まってきた頃、街中に漂う異臭、ギンナンが発する悪臭の元が酪酸となっています。過激な活動で知られる環境保護団体が日本の調査捕鯨船に対して、ビンに詰めた酪酸を投げ付けて攻撃した事からも酪酸が強力な臭味を持った化合物である事が判ります。

 チーズの臭味の元も酪酸で、バターの中から発見された事から「酪酸」と呼ばれる事からも、酪農と縁が深い事が伺えます。草食動物の体内では、酪酸を作る酪酸菌が棲息していて植物中の固い繊維質であるセルロースやヘミセルロースを発酵させて酪酸を作り出しており、酪酸は草食動物の重要なエネルギー源となっています。

 人間の体内にも酪酸菌は存在し、作り出された酪酸が便臭の元となっているというと、かなり酪酸のイメージが悪くなるのですが、酪酸と名の付く全ての化合物が悪臭を放つのかというとそうでもなく、酪酸に関連したエステルである酪酸エチルや酪酸イソアミルなどは、パイナップルの香料として使われるほどの爽やかな香りを持っています。

 そんな酪酸ですが、腸内だけでなく口の中において歯周病菌によっても作り出されています。最近の研究によって歯周病菌が作り出した酪酸は体内に吸収され、エイズウィルスの増殖を促している事が判ってきています。

 エイズウィルスに感染すると半年から20年という潜伏期間の後に発症しますが、潜伏期間の個人差の大きさや感染しても発症しない事もあり、そうした発症に関する部分は謎を多く秘めていました。

 エイズウィルスは細胞内で作られるHDAC(ヒストン脱アセチル化酵素)によって増殖が抑えられていて、HDACの働きがなくなるとエイズウィルスが増殖する事が判っています。

 HDACの働きを阻害するものとして、「トリコスタンチン」という物質が知られています。歯周病菌が作り出す酪酸にはトリコスタンチンと同じような働きをして、HDACの働きを阻害する事が確認され、エイズの発症と歯周病の間に関連性がある可能性が出てきています。

 歯周病は糖尿病をはじめとした多くの病気に関係している事が示唆されていて、エイズの発症も新たな関連性として加わる事となると、歯磨きは虫歯や歯周病の予防だけでなく、健康の基本となるのかもしれません。


 
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第1802回 臭い知恵



 発酵食品の人気の高まりやバラエティ番組の影響もあって、北欧の「シュールストレミング」や韓国の「ホンオフェ」の存在は広く知られたものとなってきましたが、世界三大臭食品の一角を担うもう一つ食品、「キビヤック」は今一つ影が薄いように思えます。

 シュールストレミングは主にスウェーデンで食べられているニシンを塩漬けにした缶詰で、通常の缶詰とは異なり密閉した後、加熱殺菌しないで乳酸菌の活動が続く状態にしているため、缶詰後も発酵を続ける事から内部の圧力が上り、缶が内側から盛り上がるという特殊な外観が特徴となっています。

 春先の産卵期という最も良い状態のニシンを使い、樽の中にニシンと塩を交互に重ねて数ヶ月漬け込んだ後、発酵中のニシンをそのまま缶に詰めるため、発酵によって生じる二酸化炭素が缶の中に溜まって高圧となる事から、多くの航空会社で飛行中の気圧低下によって缶が破裂して周囲の荷物に悪臭が染み付く事を怖れ、航空機内への持ち込みを禁止しています。

 そのため、日本へは気圧変化がない船便で運ばれ、輸入食品店などで見かける事ができます。製品によって切り身だけを使った物や頭やワタを含む物、卵であるカズノコも一緒に入れた物などがあり、それぞれ味や香りに違いがある事から、試食した人による印象が異なるものとなっています。

 そんなシュールストレミングに勝るとも劣らないとされる悪臭食品が「ホンオフェ」で、ガンギエイを壷などで発酵させて作られています。以前、製法のレポートを見た事があるのですが、獲れたてのエイをぬめりを取るために村中を引きずって歩き、壷に入れて汲み取り式のトイレの中に入れて発酵させていました。

 その後、文献などで正式な作り方を確認したところ、瓶の底に石を敷き、その上に藁や松葉などを広げて堆肥を作り、堆肥の発酵熱を使ってエイの切り身の発酵を促進させるというもので、エイのぬめりについても、ぬめりの中に発酵バクテリアが棲息しているとの事なので、最初に見た製法は大げさに演出されたものだったのかと思っています。

 10日ほどの発酵期間を経てホンオフェは仕上がられますが、その間にエイの身に豊富に含まれる尿素が加水分解されて多量のアンモニアが生成され、ホンオフェ特有の風味の素となっています。

 臭味を数値化する「アラバスター単位」によって測定すると、シュールストレミングに対してホンオフェは4分の3程度の臭味となり、シュールストレミングに軍配が上ります。キビヤックの臭味はシュールストレミングの6分の1、ホンオフェの4分の1程度なのでそれほどでもないようにも思えるのですが、作り方や食べ方という点では両者をはるかに凌ぐインパクトがあります。

 キビヤックは、グリーンランドのカラーリット族やカナダのイヌイット族、アラスカのエスキモーによって伝統的に作られてきた発酵食品で、北極圏の短い夏の間に飛来する現地でアバリアスと呼ぶヒメウミスズメを網で捕らえ、日の当たらない涼しい場所に一晩寝かせて冷し、腹を割いて皮下脂肪のみを残して内蔵と肉を全て除いたアザラシの体内に詰め込み、アザラシの腹を縫い合わせて地中に埋め、発酵させて作られます。

 熟成期間は短い物では2ヶ月から中には数年に及ぶ物まであり、一匹のアザラシの中には700羽ほどのアバリアスが詰め込まれます。アザラシの腹の縫い合わせた部分にハエが卵を産み付けないように干したアザラシの脂肪を塗り付けたり、空気穴から漏れる臭いでキツネに掘り返したりされないように、上に石を乗せておくなどの工夫の末、出来上がったキビヤックは誕生日などの祝いの日や重要な来客が訪問した際に出されます。

 キビヤックの食べ方は、アザラシを掘り返して腹を開け、羽が付いたままのアバリアスを取り出して羽を全部引き抜き、アバリアスの肛門に口を付けて発酵して液状になったアバリアスの内臓を啜ります。その際、内臓の発酵液が漏れて手などに付くと、数日間は臭いが取れないともいわれ、臭いの強烈さを伺う事ができます。

 作り方、食べ方、臭いと強烈なインパクトを持つキビヤックですが、味は乳酸発酵ゆえのチーズのような美味とされ、発酵によって作り出された豊富なビタミンやミネラルを含んでいるとされます。厳しい北極圏という環境下、決定的に不足する野菜などから得られる栄養素を補い、健康を維持するために発酵という微生物の力を利用するという知恵の結晶ともいえるのですが、世界三大臭食品の中で、最も試食したくない物となっています。


 

第1801回 ○将軍



 子供の頃、社会のテストで、「8代将軍の吉宗は、その政策のために何将軍と呼ばれたか」という問題があり、数名の生徒が「暴れん坊将軍」と回答して笑われた事が思い出されます。

 将軍吉宗は、米の増産や米相場の安定を目的とした米を中心に据えた政策を展開しており、米に関する改革も多く行っている事から「米将軍」と呼ばれていましたが、米以外のある食材の普及にも尽力しており、その分野でも大きな功績を残しています。

 吉宗は、徳川御三家の一つである紀州藩の2代目藩主、徳川光貞の四男として生まれ、本来であれば将軍はおろか藩主にすらなる事のない立場だったのですが、14歳の時に5代将軍の綱吉に謁見した際、領地を与えられて葛野藩(かずらのはん)の藩主となっています。

 その後、相次いで兄達が亡くなると22歳で紀州藩の藩主となり、膨大な借金を抱えていた藩の財政を質素倹約を徹底するなどして財政再建に取り組んでいます。時代劇でお馴染みの目安箱を設置しはじめたのもこの頃で、武芸の奨励や学問の振興など藩政の改革に尽力し、藩の財政を立て直し、庶民の苦しみを知る名君として讃えられていました。

 7代将軍の家継が急逝すると、紀州藩主であった吉宗が8代将軍として幕府に迎えられ、財政再建をはじめとした改革の推進を行い、一連の改革は「享保の改革」として今日でも高く評価されています。

 享保17年(1732年)、西日本の諸地域で稲の害虫であるウンカが大発生し、それに冷夏が重なった事から収穫がなくなった農村を中心に深刻な飢饉が起こりました。後に「享保の大飢饉」と呼ばれる飢饉によって1万人以上が命を落としたとされ、事態を深刻に受け止めた吉宗は長崎出身の深見新兵衛に九州の飢饉の様子を尋ね、薩摩藩のみがほとんど餓死者を出していない事を知ります。

 吉宗は薩摩藩がほとんど餓死者を出さなかった事に着目し、薩摩藩がサツマイモの生産を奨励していた事が飢饉を救った事を知ります。同じ頃、江戸の町奉行であった大岡忠相が救荒作物としてサツマイモを研究していた青木昆陽を吉宗に推挙し、昆陽は「蕃藷考」という自らの著書を献上してサツマイモの有用性を吉宗に伝えました。

 蕃藷考に「サツマイモは天候の不順や荒れた土地、病気にも負けずに育つ。そのうえ栄養価が高く、長期保存も可能」と書かれた特性に注目し、昆陽を登用して関東地方にサツマイモを普及させる活動に乗り出しています。米に頼らない食糧体制の構築を考えていた吉宗にとって、サツマイモの有用性は今後も起こり得る飢饉対策の柱となるものであり、サツマイモの普及は急務となっていました。

 サツマイモへの理解を深めるために、蕃藷考を庶民にも読める仮名混じりの平易な文に書き改めさせ、栽培方法や食べ方、保存方法などの要点をわかりやすくまとめさせて、薩摩藩から取り寄せた種芋と共に各地に配布しています。

 小石川の薬草園でも試験栽培を行い、収穫されたサツマイモを種芋として諸国へ分け、栽培させる事を繰り返して徐々に栽培地域を拡大して定着させ、後の「天明の大飢饉」をはじめとする飢饉のたびに多くの人命を救う事となります。サツマイモへの感謝の気持ちは、下総の馬加村(まくわむら)にサツマイモの栽培を伝えた昆陽を祀った神社が建てられたほどで、江戸時代の後期にはサツマイモ専門の料理本、「甘藷百珍」(寛政元年、1789年)も刊行されています。

 文化2年(1805年)に書かれた「包丁里山海見立相撲」には、最高の評価である「横綱級」に鰻やすっぽんに並ぶ物としてサツマイモ料理が挙げられ、サツマイモの人気の高さを伺わせています。「江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし」とまでいわれ、吉宗の努力が実を結んだ事が判ります。

 米を重視した政策が大きく評価され、米将軍の異名を持つ吉宗ですが、サツマイモを普及させ、その後の飢饉から多くの人命を救った事を考えると、米以上の功績を残したともいえます。しかし、その功績によって、「芋将軍」と呼ばれるのは少々気の毒な感じがするので、やはり「米将軍」でよかったと思ってしまいます。


 

第1800回 和尚と漬物



 漬物というと浅漬けや糠漬け、柴漬けなどの野菜の保存性を高めながら風味や食感を良くした物が思い浮かびますが、食材を塩や酢、糠、味噌、醤油、酒粕、油脂などに漬け込んで、保存性を高めながら熟成させた物という意味ではツナ缶やオイルサーディンも漬物の一種となり、少々違和感を感じてしまいます。

 四季がある日本では、野菜が採れない時期の野菜不足を補う意味からも、古くから漬物が作られていました。そんな日本において最も親しまれている漬物というと、地域性などもあるとは思うのですが、全国的という点で考えると「たくあん漬け」ではないかと思えてきます。

 たくあん漬けは江戸時代初期に活躍した名僧、「沢庵宗彰」に深い関わりがあるとされ、沢庵和尚が考案したという言い伝えから、沢庵和尚に因んで名付けられた、沢庵和尚の墓石が漬物石に似ていた事が名前の由来となったなどと、たくあん漬けを語る上で沢庵和尚は欠かせない存在となっています。

 沢庵和尚は元々は武家の出で、戦国時代に但馬国を治めていた山名氏の家臣の家に生まれています。山名氏が羽柴秀吉によって滅ぼされてしまうと、主家を失った沢庵和尚は10歳で出家して浄土宗の唱念寺に入門し、その後、京都の大徳寺に入り、詩歌や書画、茶道などに精通し、古い概念に囚われない名僧として知られるようになります。

 戦乱の世が終焉し、徳川家康によって江戸幕府が成立すると、幕府は大寺院と朝廷との結び付きを警戒するようになり、両者の関係を弱めるためにさまざまな規制を設けます。中でも紫の法服に関する「紫衣の勅許」が天皇と公家を規制する「禁中並公家諸法度」に反するとした事は多くの僧侶の反発を招き、大規模な反対運動に発展し、沢庵和尚もその運動に参加していました。

 大規模な反対運動の末に沢庵和尚は流罪となり、現在の山形県にあたる出羽国に流されていますが、理にそぐわないものには屈せず、己の信義をを貫こうとする沢庵和尚の姿は、多くの人々に感銘を与えたとされます。

 徳川家康が亡くなり家光の時代になると、沢庵和尚は赦されて家光に謁見する機会を得ています。その際、沢庵和尚の人柄に触れた家光は沢庵和尚を高く評価し、さまざまな相談を持ちかける間柄になっています。以降、沢庵和尚は幕府の治世に影響力を持つようになり、名僧としての名声を不動の物とします。

 そんな沢庵和尚にゆかりのある東海寺には、沢庵和尚とたくあん漬けに関する言い伝えが残されていて、それによると家光に東海寺の開山を依頼された沢庵和尚は、現地で糠と塩を使った大根漬けを作って日常の食としていました。ある日、家光が東海寺を訪れて食事をした際、大根漬けの素朴な風味と美味しさに驚き、名前を聞いてみると、沢庵和尚はこれといった特別な名称がない事に困惑してしまい、家光は「たくあん漬け」と名付けて、以後、そう呼ぶように命じたとされています。

 また、江戸時代に刊行された「書言字考節用集」には、たくあん漬けを作る際に使う重石の形状が沢庵和尚の墓石に似ている事から、大根の糠漬けがたくあん漬けと呼ばれる様になったと記載され、東海寺の言い伝えとは異なる由来が語られています。

 日本における糠漬けの歴史は古く、平安時代にはすでに作られていた事が確認されています。特に禅寺では盛んに作られていて、鎌倉時代から室町時代にかけて禅宗が一般化すると、糠漬けも一般的に作られるようになっていた事が考えられます。

 そのため、たくあん漬けは沢庵和尚の考案ではない事は容易に想像でき、日常的なものであった事から正式な名称がなく、家光によって沢庵の名前が付けられた可能性が高くなってきます。墓石は生前に沢庵和尚が形状を指定していた事よりも、死後、たくあん漬けの沢庵和尚の墓だからという事で重石に似た形状にした可能性の方が高いように思え、沢庵和尚とたくあん漬けの関わりが判ってくるように思えます。

 今日、たくあん漬けというと、乾燥させたり塩漬けにしたりして水分を抜いた大根を、黄色く着色した調味液に浸した状態で売られています。素朴な糠漬けから変化してしまった現代のたくあん漬けを沢庵和尚や家光はどのように評価するのか、黄色いたくあん漬けを前にそのような事を思ってしまいます。


 

第1799回 味覚の所以



 味覚というと甘味、塩味、酸味、苦味、旨味の基本的なものに、最近では脂肪味、カルシウム味などが加わってきています。そうした味覚は、多くの動物に備わっているとされ、さまざまな味を特徴としている物質を知覚できるように進化してきたと考える事ができます。

 味覚は栄養となる成分を選択し、毒物を避ける事に有効に働く事から、動物にとってより良く安全に生存するための基本的な機能という事ができます。

 甘味は植物が蓄えた栄養を示し、直接的なエネルギー源となる糖分の存在を示唆しています。果実や蜜をはじめとした植物の甘い部分を食べる事によって、動物は活動に必要なカロリーを得る事ができ、植物は動物のそうした嗜好を利用して種や花粉の運搬を行わせています。

 塩味は動物の健康を維持するために不可欠なミネラルの存在を示し、内陸部では貴重なナトリウムは体内での吸収率が高く、植物を通じて摂取できるカリウムは吸収率が低い傾向があります。

 酸味は腐敗や発酵によって生じた酸の存在や果実の未成熟を感じさせ、苦味は毒素の存在を感じさせる事から、本来は動物は好まない味覚とされます。特に免疫力や解毒力が未熟な子供が酸味や苦味を避ける傾向が顕著で、子供が嫌う代表的な食材であるピーマンが成長と共に食べられるようになる事は、成長によって解毒力が高まり、毒素として認識味覚していた苦味を許容できると判断するようになるためといえます。

 旨味はさまざまなタンパク質の原料となるアミノ酸の存在を示し、カルシウム味は細胞の活動に不可欠なカルシウムの存在を感じ取っています。カルシウムというと骨を連想しますが、骨は生存に不可欠なカルシウムを体内に貯蔵する事が起源となっている事を考えると、カルシウム味が味覚に含まれている事にも納得がいきます。

 脂肪味はより栄養価が高い物を食べるという嗜好に繋がり、栄養が豊富な穀類や充分な栄養を獲得している獲物を選別し、より豊かな栄養の確保のための味覚といえるのですが、栄養が溢れている今日では困った味覚ともいえます。

 よく「犬は甘ければ食べるが、猫は甘さに見向きもしない」といわれますが、それには犬は肉食に近い雑食性で猫は肉食という食性の違いが関係しています。雑食性であれば植物性の食材を口にする可能性があるため、より多くのエネルギーが得られる糖質を選別して求める事が必要であり、肉食であれば甘味を感じる事はそれほど重要ではなくなってしまいます。

 それぞれのライフスタイルに応じて求める味覚が独自に進化した事が考えられるのですが、かつては貴重だった糖質や脂質を求める性質が今日、肥満という健康の大敵となってしまっている事が、何とも皮肉に思えてしまいます。


 

第1798回 精進の食(2)



 インドで始まり中国へと伝えられた仏教において、僧侶の日々の糧を得るために、大切な戒律であった生産行為と労働行為の禁止を破る代わりに生まれた生活の全てが修行であるとする「作務」という概念ですが、食料を得るために僧侶自らが作物を育て、日々の食料を確保するという事が修行の一環とされた事で、全面的に肯定されたかというとそうでもない事が、「必ず罪があるというとそうでもなく、全く罪がないかといわれるとやはりそうでもない。罪があるかないかは本人のあり方しだいだ」という唐の時代の高僧の言葉に伺う事ができます。

 また、食事回数に関する戒律もインドにおいては、朝食と昼食だけの一日二回、午後は一切何も食べないというものが守られていましたが、中国では一日三回という風習が根付いていた事や、温暖なインドとは異なり、寒さが厳しい高山に建立された寺院において、日々厳しい作務を行う僧侶の体を維持するには二食ではエネルギーが不足する事から、一日三食を摂るようになっています。

 食に関する部分から戒律が崩れてきた事もあり、食に関する新たな戒律が加えられ、菜食主義が採り入れられて酒や肉、魚、ネギなどの香りが強い野菜を食べないという精進料理の根幹の部分が成立しています。

 中国において菜食主義の戒律が成立した背景には、古くから「医食同源」といった考え方が根付いており、食材の効用に関する高度な知識の蓄積があった事や、日常の食事も健康を保ち、命を養うものであるという思想がすでに存在していた事が考えられます。

 その後、仏教は日本へ伝えられるのですが、日本では仏教伝来よりもはるか以前に肉や魚を食べる事を避けて心身を清らかにするという、「潔斎(けっさい)」という考え方が神道の影響で根付いており、精進料理は抵抗感なく浸透していきました。

 675年には天武天皇の勅命によって僧侶の肉食が禁止され、食事内容が定められた事によって精進料理発展の土台が作られるのですが、当初の精進料理はまだ調理方法が発達しておらず、平安時代の中期に書かれた「枕草子」には、「そうじものいとあしき」と記載されていて、僧侶が食べていた「そうじもの(精進もの)」が「いとあしき(すごく不味い)」物であった事が判ります。

 不味い物として後世に残されてしまった平安時代の精進料理ですが、形式や作法の原型が成立したのがこの頃で、急速に民衆の間に広まって寺院でさまざまな行事が行われるようになると、その際に出される正式な料理としての位置付けを得ていきます。

 日本における精進料理が本格的に発達するのは鎌倉時代以降の事で、鎌倉時代に禅宗が盛んになってくるとそれまでの和食の薄味と比べ、厳しい作務に対応した精進料理はしっかりとした味付けがされており、武士や庶民の好みに合う物となっていました。味噌やすり鉢、根菜類の煮しめ、豆腐、高野豆腐、コンニャク、浜納豆、ヒジキといった和食の基本的なものは、精進料理からもたらされています。

 日本の精進料理の発展に最も大きく貢献したのは曹洞宗の開祖である道元禅師で、仏教をより深く学ぶために宋へと渡った道元禅師は、現地で修行と食事の関わりの強さを目の当りにし、それまでの食に関する誤った認識を反省する事となります。

 徳の高い老僧が食事係に当たる「典座和尚」に就いている事について、「食事の支度など若い僧にさせるべきで、高僧は座禅や仏法の議論に当たるべきでは」という道元禅師に、「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、まるで解っていない」といわれ、日常の実践を修行として重視する禅の考えが充分に伝わっていなかった事を認識し、食材に対する敬意を持つ事や整理整頓を心掛けて道具を大切にする事、食べる人の立場に立って料理する事、作る事やもてなす事への喜びを忘れない事、とらわれや偏りを捨て、深く大きな心で作る事、手間と工夫を惜しまない事など、多くを学んだとされ、帰国後、食を重要視した事が精進料理発達の原動力となっています。

 江戸時代に入ると明の衰亡に伴って中国の禅宗の一つであった黄檗宗が伝来し、「素菜」と呼ばれる中国式の精進料理がもたらされ、普茶料理として新たな精進料理の流れを形成します。

 普茶料理は、それまでの精進料理が個別に一膳を供されていた事に対し、一つの卓を四人で囲み、大皿に盛られた料理を皆で食べるというそれまでにないスタイルが特徴となっています。

 普茶料理は精進料理として以上に異国情緒を味わえる料理として広まり、黄檗宗の寺院だけでなく一般の料理屋でも食べられる物となり、特に長崎では卓袱料理と影響し合って独自の世界観を作り出し、それまでの和食では使われる事のなかったテーブルクロスやガラス製のワイングラス、水差しや洋食器などが用いられる華やかなものとなっています。

 室町時代から江戸時代の前期にかけて普及した本膳料理に大きな影響を与えた永平寺式の精進料理と普茶料理、二つの大きな流れが今日の洗練された精進料理へと繋がっていく事となります。


 

第1797回 精進の食(1)



 学生の頃、バイト先の店では食事として、仕出し屋から毎日配達されてくる弁当が出されていました。かなりローコストな弁当らしく、安くて食べ応えのある根菜類の煮物ばかりで、ほとんど肉や魚などは入っていません。ある日、仲の良いお客さんからどのような食事が出されているのかという質問を受け、毎日、精進料理が出されていると答えると、「そんなに良い物が出されているのですか」と驚かれ、苦笑してしまった事があります。

 精進料理とは、一般的に仏教の戒律に基いて肉や魚を使用せずに作られた料理とされています。精進=修行の際に食べる料理とされる事もあり、長い仏教の歴史と共に発展し、非常に洗練されたものとなっています。

 仏教と共にあり、戒律によって定められた精進料理ですが、意外な事に仏教の開祖であるお釈迦様は肉食の否定も菜食への偏重も行ってはいませんでした。出家した後、ありとあらゆる苦行に取り組んだ末、悟りを得る事ができず、穏やかな気持ちの中、菩提樹の下で瞑想しながら悟りを得たお釈迦様は、何事も「中道」こそが正しい道と説き、食生活においてもそれを実践していました。

 その頃、すでにインドでは菜食主義を日常として、「生臭もの」を避ける生活を実践し、民衆から尊ばれる出家者が一部宗教において見られていましたが、お釈迦様が「生き物を殺す事、打ち、切断し、縛る事、盗む事、騙す事、他人の妻に親近する事、これが生臭である。肉を食べる事が生臭いのではない」とお経の中で説き、肉を食べる事を禁じていない事が伺えます。

 お釈迦様は肉を食べる事は否定していませんでしたが、慈悲の心によって「殺生」は禁じており、僧侶が魚や肉を得るために漁や狩を行う事は禁じていました。また、物への執着や所有欲を絶つために、一切の生産行為や労働行為を禁じていたため、僧侶たちはその日の糧を托鉢によってのみ得る事となっていました。

 托鉢へのお布施は、主に穀類や豆類、果物などが多かったとされますが、稀に肉や魚がお布施される事もあり、その際はありがたくいただく事となるのですが、その肉や魚がお布施にするために殺された物であった場合、僧侶のために殺生が行われた事となるため、その動物が殺されるところを見た肉、自分のためにその動物が殺されたと聞かされた肉、その疑いがある肉は、「見聞疑(けんもんぎ)の三肉」として食べる事を禁じられています。

 その当時の僧侶の生活は、午前中の早い時間に托鉢を行い、お布施でいただいた物を使って朝食と昼食を摂り、午後は一切何も食べずに食材も持ち越す事がないよう使い切っていました。食材を次の日以降に持ち越さないようにする事は、物への執着や所有欲を生じないようにするためで、毎朝の托鉢と食材の使い切りが僧侶の日常となっていました。

 その後、中国へ仏教が伝えられる際、時代を経て教義が難解になってしまった仏教の中で、比較的庶民にも理解しやすい座禅修行を中心とした禅宗が広まり、座禅修行が行いやすいように禅宗寺院は人里離れた山の中に建立されるようになります。

 インドとは違い、中国では托鉢やお布施といった習慣がなく、托鉢僧が充分な食事ができるだけのお布施の確保が難しいだけでなく、寺院も山中にあるため、托鉢に出て人里まで行く事も大変で、しかも気候もインドよりも厳しく、中国の僧侶はインドの僧侶よりもより多くのカロリーを必要とするようになります。

 仏教の戒律によって生産行為と労働行為が禁止されていましたが、過酷な環境下での厳しい修行、思うように集まらないお布施という状態にさらされた中国の僧侶にとって、厳格に戒律を守るかどうかについては死活問題といえ、寺院内で何らかの生産行為を行わない事には修行を続ける事も困難となっていました。

 食料を生産するために田畑を起こす事は、所有と蓄財に繋がる事であり、お釈迦様から禁止された事でもあります。畑を耕せば地中の虫を傷付けてしまう事でもあり、作物を荒らす害虫を駆除する事は直接的な殺生にも当たります。そんな中、生み出されたのが「作務」という考え方で、日常の全ての事が修行とする考え方です。

 それまで雑用でしかなかった掃除や洗濯、炊事も修行の一環であり、農産物の生産も修行と考えるようにすれば世俗的な利益や蓄財とは縁が薄い事となります。自然に感謝しながら作物を育て、丹精込めて調理し、その日の糧にありつける事に感謝しながら食べるといった全てが修行となるため、精進料理という概念の源流がそこにあるように思えます。


 

第1796回 牛乳と豆乳



 ラムスデン現象、言葉にすると、とても難しげな事のように感じられるのですが、実はとても身近な現象で、牛乳を火にかけて温めると表面に膜が張る現象の事をラムスデン現象といいます。牛乳に含まれているタンパク質と脂質が、表面の水分の蒸発によって熱変性する事によって膜ができるのですが、牛乳の舌触りを悪くする原因として嫌われる現象の一つでもあります。

 子供の頃、冬の寒い朝には温かい牛乳が飲めるようにと、母親が配達された牛乳をストーブの横に置いて温めてくれていました。一度、ストーブと牛乳瓶の距離が近過ぎたのか、牛乳が意外なほど高温になってラムスデン現象が起こり、開けて乗せたままにしていた紙の蓋に張り付いて乾燥し、牛乳瓶を密閉していた事があります。

 沸騰まではしていなかったのですが、牛乳瓶の中は結構な圧力となっていたらしく、テーブルに着いた私の前に牛乳瓶が置かれると、その際の衝撃で蓋に張り付いて固まっていた膜が破けて一気に中の牛乳が天井まで吹き上がったという事あり、それ以来、私の中ではラムスデン現象は油断できない危険な現象となっています。

 どちらかというと嫌われ者のラムスデン現象ですが、日本の食文化には深く関わっていて、古くから親しまれてきています。牛乳とは縁が薄い日本の食文化ですが、豆乳を温めた際に起こるラムスデン現象は湯葉として日本の食、特に精進料理などでは欠かせない素材となっています。

 日本における湯葉の歴史は今から1200年ほど前、最澄が中国から仏典やお茶などと一緒に持ち帰ったのがはじまりとされ、国産初の湯葉は比叡山の延暦寺において作られています。その後、湯葉が寺院における重要な食材となった事が、「山の坊さん何食うて暮す、湯葉のつけ焼き、定心坊」と歌われた古い童謡に伺う事ができます。

 つけ焼きとは今日でいう蒲焼の事で、定心坊は漬物を指しています。動物性タンパク質を摂らない寺院での生活において、大豆由来のタンパク質の塊ともいえる湯葉は、僧侶の健康を支える重要な食材となっていました。

 今でも比叡山のふもと付近は湯葉の名産地となっていて、京都や近江、日光、身延といったいわゆる門前町が広く知られています。通常、「湯葉」と書きますが、日光では「湯波」と表記する事があり、日光産湯葉の特徴といえるかもしれません。

 湯葉は豆乳を火にかけて熱する事によるラムスデン現象によって作られ、それを一枚ずつ鍋から引き上げる事から、生の湯葉は「引き上げ湯葉」と呼ばれる事もあります。産地によって引き上げ方に違いがあり、京都の湯葉は端の方に串を入れて引き上げる事から一枚、日光では中央に串を入れて引き上げる事から二つ折りとなり、二枚重ねに仕上げられます。

 湯葉はそのままでは保存性が低い事から、乾燥させて「干し湯葉」にして保存性を高めます。通常は自然乾燥させますが、日光では油で揚げた物も見られ、湯葉のバリエーションの一つとなっています。半乾燥状態のうちに巻いたり、結び目を付けたりして形状にも変化が与えられ、さまざまな料理に利用できるようになっています。

 日本以外でも湯葉は食べられていて、台湾では「豆皮」、中国では「腐皮」と呼ばれています。湯葉を棒状に絞ってから乾燥させた「腐皮」も中国には見られ、日本とは違った湯葉の世界観を見る事ができます。

 牛乳では嫌われるラムスデン現象が、豆乳では湯葉として好まれる違いはどこにあるのだろうと考えてしまうのですが、食材として成り立つだけのしっかりとした質感が得られるかどうかという部分が関係しているように思えます。

 牛乳と豆乳のタンパク質量はほぼ同じで、若干、豆乳の方が多くなっています。逆に脂質に関しては牛乳の方が豆乳の倍ほど含まれていて、そうした成分的な違いや動物性、植物性といったタンパク質の違いが牛乳と豆乳のラムスデン現象の結果の違いに繋がっていると考える事ができます。

 牛乳は温めると風味が損なわれてしまいます。それに対し豆乳は風味が濃厚になり、美味しさが増します。その違いが牛乳製の湯葉が食べられていない最大の原因ではないかと思えてしまいます。


 

第1795回 鶏の所以



 以前、マグロ料理の専門店で「マグロのから揚げ」をいただいた事があるのですが、身が軟らかい鶏肉のから揚げという感じで、わざわざ割高なマグロではなくても充分で、から揚げは鶏肉が一番と思った事があります。その際、もう一つ思った事に、質感や色合いが近い事から、マグロの油漬けの缶詰に「チキン」の名前を付けたのは、実に見事なネーミングと思ってしまいました。

 日本で最初に商業的に生産された魚の缶詰は、明治10年(1877年)に北海道で作られた鮭の缶詰とされ、国内には生産された一部が軍用に用いられる以外は、ほとんどが輸出に回されていました。

 それから遅れる事、26年。1903年にマグロの油漬けの缶詰がアメリカで発明され、人気となっていました。日本でもアメリカでのニーズの大きさから、各地の水産試験場においてマグロの油漬け缶開発の研究が進められますが、充分な品質を確保した製品の開発には至らず、1929年になって初めて静岡県の水産試験場においてマグロの油漬け缶が完成されました。

 静岡県の水産試験場で試験製造されたマグロの油漬け缶は、「富士丸ブランド」のラベルが貼られてアメリカへ輸出され、手応えを感じた静岡水産試験場は各地の缶詰業者にマグロの油漬け缶製造を製造する事を提唱し、その呼びかけに応えるように翌1930年、清水食品がマグロの油漬け缶の製造を開始し、9800ケースもの製品をアメリカへ輸出しています。

 清水食品の成功を受け、1931年には後藤缶詰も水産試験場の技師に依頼した試作品を持参して渡米し、現地よりも安くて優れた製品を作れるという自信を深め、原料となるビンナガマグロ漁の最盛期に合わせて缶詰工場を建設し、マグロの油漬け缶製造に参入しました。

 後藤缶詰ではマグロの漁期にはマグロの油漬け缶が作られ、冬場はミカンの缶詰製造を行うという操業が行われていましたが、第二次世界大戦が始まると物資の不足から缶詰の原料は政府の統制下に置かれ、戦後もしばらくは統制下に置かれた状態が続けられました。

 原料の配給制が終わり、自由な製造が行えるようになってもアメリカ市場の安定性を確保するため、マグロの油漬け缶の製造は政府によって割り当てが決められ、自主的に輸出量を調整するために共販会社が設立されていて、マグロの油漬け缶は無地のまま製造され、共販会社へ納入された後、共販会社によってオリジナルのラベルが貼られて輸出されるという販売方法が採られていました。

 その後、アメリカ向けの輸出は飛躍的に伸び、マグロの油漬け缶製造業者は早い段階で戦後復興を果たす事となるのですが、アメリカ政府は1951年にマグロの油漬け缶の輸入関税をそれまでの22.5%から倍の45%に引き上げ、国内業者の保護に乗り出し、日本のマグロの油漬け缶製造業者は、製品をマグロの水煮缶に切り替える事で低税率の製品輸出に務めています。

 輸出は順調に行われ、業績は安定していましたが、政府によって製造量が割り当てられ、共販会社によって同じブランドで売られている状況では、いつまで経っても競合他社の製造規模を超えられないと考えた後藤缶詰では、それまで販売実績のなかった日本国内に目を向け、共販会社への単なる納入業者からマグロの油漬け缶製造メーカーへの脱却を図るという方向転換が行われました。

 日本人の住まいが団地に移り変わって核家族化も進み、食の欧米化も進む事から、昔のように炭火で魚を焼くのではなく、手軽な缶詰も普通の食べ物となる事が予想され、マグロの油漬け缶も市場に受け入れられる事は確信できていたのですが、高度成長期の工業的な風景を見慣れた若い世代が「油漬け」という言葉にあまり良い印象を持たない可能性が考えられた事から、色が白いビンナガマグロの肉が「海の鶏」と呼ばれる事がある事を元に「チキン」の名前が与えられています。

 今日ではあまりに一般化し過ぎて登録商標にも関わらず、他社の製品であってもマグロの油漬け缶はチキンの名前で呼ばれてしまいますが、少しでも馴染みのない食べ物を抵抗なく受け入れてもらおうと工夫を凝らした末の事と、食の歴史の面白さを感じてしまいます。


 

第1794回 うなぎ変遷



 徳川家康が江戸へと入り、本格的な開発がはじまると各地に積極的に干拓が行われ、多くの泥炭の湿地帯が発生します。汽水域の湿地帯はうなぎの生息に適していて、江戸では多くのうなぎを見る事ができるようになりました。

 安価で精が付くうなぎは労働者たちにとって最適な食べ物であったのですが、当時はぶつ切りにした物を串に刺して焼いただけの今日のような洗練された物ではなく、下賎な食べ物とされていました。今日の蒲焼という名称は、この頃のぶつ切りにして串に刺した姿が蒲の穂に見える事が由来ともいわれます。

 その後、うなぎは山椒味噌などを付けて焼かれるという食べ方が行われるようになりますが、相変わらず評価が低く、下世話な食べ物といういい方をされ続けます。うなぎの評価が変化するのは、今日の蒲焼が登場してからで、その時期は諸説があり、定かではないのですが江戸の後期と見られています。

 うなぎを調理するには高い技量が要求され、平たく割いて骨を取り除き、串を打って焼き上げるという高度なものですが、濃口しょうゆ、みりん、砂糖、酒などを合わせた蒲焼特有のタレよりも先に焼き方の方が確立され、味付けには味噌や酢が使われていました。

 うなぎとしょうゆが結び付いた背景には、下総国野田や銚子で作られる関東風の濃口しょうゆの普及があり、当初は「しょうゆのかけ焼き」という調理法が採られていましたが、脂が多いうなぎはしょうゆを弾いてしまい、味が染みないという欠点がありました。

 うなぎ自体にしっかりとした味を付けるには、うなぎをさばいて余分な脂を落としながら焼き上げ、糖分を使った濃厚なタレが不可欠で、それらしい物が登場するのは1700年頃に出された「江戸名物百人一首」の絵札に深川八幡社で露天を開くうなぎ売りの姿が描かれており、行灯に「名物大かばやき」と記されていて、それまでとは違う蒲焼を「大かばやき」と表現した事が伺えます。

 うなぎにとって最適な調理法といえる現代風の蒲焼が確立されるとうなぎ料理は和食として完成され、1800年頃には関東風と関西風のうなぎ屋が混在して見られるようになります。参勤交代が料理人の移動を促し、関東の料理人と関西の料理人が江戸に混在したためですが、その後、武家社会の価値観の影響や庶民の好みもあり、関西風のうなぎ屋は江戸から姿を消しています。

 よくいわれるうなぎの調理法の関東と関西の違いですが、腹を切るという事を嫌った武家社会の影響を受けて、背開きにする関東風と通常の魚と同じ腹開きにする関西風という違い以外に、割いた後、頭を落としてから串に刺す関東風と、頭を付けたまま串に刺し、タレを付けて焼き上げてから頭を落とす関西風という違いがあります。

 関西においてタレを付けて焼き上げられた後、切り落とされたうなぎの頭は「半助」と呼ばれ、ある程度の数が集まると半助と焼き豆腐か木綿豆腐を酒、しょうゆ、砂糖、みりんで味を付けて煮込み、「半助豆腐」が作られます。

 うなぎの蒲焼と同じく山椒をふっていただく半助豆腐ですが、食べてみると意外なほどうなぎの頭は骨が少なく、ゼラチン質の食べる部分が多い事が判ります。

 関東では頭だけをいくつか串に刺し、「兜焼き」としてタレに付けて焼き上げます。肝吸いに半助、兜焼き、食材を無駄にしない日本の食文化の奥深さを感じさせてくれます。


 
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