第1861回 大電圧



 冬が訪れ、冷たく乾いた風が吹くようになると、何でもない動作の中に静電気を感じるようになります。軽く撫でた髪が逆立ってきたり、ドアのノブに向かって火花が飛んだり、衣類がまとわりついたりという事が日常的に見られ、気が付けば帯電してしまっている事を意識してしまいます。

 よく金属などに触れようとした際、指先から火花が飛んで「静電気が発生した」といってしまいますが、正確には静電気はすでに発生して蓄えられていて、「放電による火花が発生した」というのが正しいと聞かされた事があり、静電気は瞬間の事ではなく日常生活の中で意識していない間にも発生し、蓄えられているものである事が判ります。

 静電気の存在は非常に古くから知られており、紀元前600年頃には「タレスの定理」で知られた古代ギリシャの哲学者、タレスによって摩擦帯電についての記述が行われていて、電池などが発明されて電力を利用するようになる前は、電気といえば静電気の事を指していました。

 最も身近な静電気というと摩擦によって生じるもので、子供の頃、下敷きを擦って静電気を帯電させ、髪の毛を逆立てて遊んだのは摩擦帯電の性質を利用したものという事ができます。最近では身の回りに化学繊維が増えた事もあり、さまざまな動作に伴う摩擦によって知らないうちに帯電してしまっている事が多く、特に冬場は軽くて暖かいフリース素材の衣服を重ね着する事によって摩擦帯電が見られます。

 日常生活の中のありふれたもののように思え、放電による激しい衝撃と痛み程度の弊害のように思える静電気ですが、以前、パソコンのメモりを増設した際、売り場のスタッフの方にとにかく家具などの金属部分を触って静電気を放電しながら作業を行うようにいわれ、頑丈そうに見える半導体が一瞬の火花で壊されてしまう事を教わりました。

 指先に生じる小さな火花ですが、静電気による放電は数千から数万ボルトに達するといわれ、家電製品が使う100ボルトとは桁外れに大きな力を秘めている事が判ります。

 家庭用電流では扱いを誤ったりして感電事故が起こる事があり、重篤な場合、死に至る例も見られます。それよりもはるかに大きな桁外れの電圧を有していながら、静電気の放電では痛み程度で済んでいるのか。少々不思議に思えてくるのですが、静電気は非常に大きな電圧を有していながら、電流はわずかでしかありません。

 大雑把な考え方では、電圧とは電気が移動する力で、電流は電気が流れる量となっています。帯電して蓄えられていた静電気の高い電圧は、ドアのノブなどの電気が流れやすい金属に向かって激しい衝撃を伴った火花として流れる力となります。しかし、流れる電気の量である電流はわずかであるため、衝撃に伴う痛み程度の事で済んでいるという事ができます。

 どうしても不快感ばかりしか連想できない静電気ですが、食品などの保存に便利なラップが容器にうまく貼り付いてくれるのも静電気のお陰で、ラップの端が容器にうまく貼り付いてくれない際は思わずもっと静電気をと思ってしまいます。


 
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第1860回 パディントンの大好物



 以前、個人輸入で熊のパディントンのぬいぐるみを購入した際、イギリスからの長旅に関わらず手持ちの旅行カバンの中にはわずかな小銭とサンドイッチだけで、パディントンがいかにも旅慣れているように思えてきて、思わず「長旅、ご苦労様」と語りかけた事があります。

 パディントンの大好物はマーマレードのサンドイッチとの事なので、旅行カバンの中にあったのもマーマレードのサンドイッチではないかと思われます。マーマレードは数あるジャムの中で柑橘類を加工して作られる物で、果肉だけでなく果皮も加えて作られる事から豊かな風味とほんのりとした苦味が特徴となっています。

 子供の頃はその苦味が苦手で、朝食の際に出されてもまず食べる事はないジャムとなっていました。その頃、不思議に思えていたのは、イチゴは「イチゴジャム」、リンゴは「リンゴジャム」、梅は「梅ジャム」なのにオレンジだけ何故「オレンジジャム」ではなく「マーマレード」なのかという事でした。

 ジャムの歴史は非常に古く、古代にはすでに作られていた事が確認されています。ジャムは果実や果汁に含まれるペクチンに糖類と酸が作用する事で、ゼリー状のジャム特有の質感となり保存性も高まります。本来は日持ちが利かない果実類を保存する手段として発達した事が考えられ、単純に果実を煮詰めて水分量を減らすのではなく、糖分を加える事が重要なポイントとなります。

 旧石器時代後期の洞窟の壁画に人類がミツバチの巣から蜜を集める様子が描かれ、果実を土器で煮た跡も見付かっていて、すでに果実に糖分を加えて煮込むジャム作りが行われていたと考える事ができます。

 その後、長い間ヨーロッパでは蜂蜜を使ったジャム作りが行われるのですが、紀元前320年頃、アレキサンダー大王の東征がインドにまで及ぶと、「ミツバチの力を借りなくても葦を使って蜜を得る事ができる」として砂糖の存在が知られるようになり、貴重な砂糖を使ったジャムは王侯貴族や高僧に珍重される食べ物となっています。

 1096年から1270年に行われた十字軍のオリエント遠征の際、大量の砂糖がヨーロッパに持ち帰られるようになるとジャム作りも一般化して盛んに行われるようになり、限られた期間しか収穫できない果実を年間を通して利用できる物として普及していきます。

 マーマレードの誕生はそのはるか後、18世紀の後半の事とされ、スペインのセビリア地方で大量に収穫されて安価に売られているオレンジに目を付けたスコットランドの商人が、たくさんのオレンジを買い付けてスコットランドへ持ち帰ったところ、オレンジの酸味が強過ぎて商品とならない事が判り、苦心の末、妻の提案によって砂糖で煮詰める事で商品化した事がはじまりとされます。

 後に商人はマーマレードの製造販売を行う会社を設立し、世界中にマーマレードの美味しさを広めていますが、マーマレードという不思議な名前については、ポルトガルで最初に柑橘類のジャムを作った際、原料が「マルメロ」であった事や、伝統的にマルメロの砂糖漬けが作られ、広く知られていて、オレンジを砂糖で煮込んだ物がそれに似ていたため、マルメロが転じてマーマレードとなったともいわれます。

 今日、JAS(日本農林規格)では果実や野菜、花弁などを糖類と一緒に加熱してゼリー状にした物をジャム類としています。ジャム類はジャム、マーマレード、ゼリーの3種に分けられ、ジャムとマーマレードは異なる物である事が判ります。

 マーマレードとはジャム類の中で、特に柑橘類の果皮まで使用して作られた物と定義されていて、オレンジに限らずレモンや柚子、ミカンなどでも作る事ができますが、イチゴやブルーベリー、リンゴなどでは果皮まで使って作っても柑橘類ではない事からマーマレードと呼ぶ事はできず、同様にオレンジを使っていても果肉だけで作ってしまうとオレンジジャムとなってしまいます。

 柑橘類の果皮まで使用した物だけに許される称号、マーマレードというと非常にありがたい物に思えてくるのですが、今でも果皮の苦味への抵抗感が少し残されていて、パンに塗って食べる物として選択する頻度は低くなっています。しかし、調味料として利用する事が多く、しょうゆとの相性の良さからソースの素材として重宝しています。創始者とされるスコットランドの商人、ジェームズ・スキーラー氏がそのような使い方をどのように感じるかは不明ですが、意外にも和食に合う事を教えて上げたかったようにも思えます。


 

第1859回 ネギとマグロの事情



 以前、知り合いが焼き鳥店をオープンさせた際、是非、食べに来てくださいと誘われ、「特別なねぎまを用意しておきますから」といわれた事があります。何故、「ねぎま」なのだろう、「特別なねぎま」とはといろいろ不思議に思えて、いまだに解決していない謎の一つとなっています。

 ねぎまは鶏肉とネギを交互に串に刺した焼き鳥の人気メニューで、鶏肉の間にネギがある事から「ねぎま」となっていると思われていますが、ねぎまの語源は焼き鳥とは関係のないところにあり、串とも鶏肉とも無縁な鍋物が元となっています。

 江戸時代、天保の頃には江戸の庶民の間でマグロが盛んに食べられるようになります。当時は冷蔵や冷凍といった保存技術がない事から、マグロは切り身にしてしょうゆに漬け、今でいう「ヅケ」にして保存性を高めて流通していました。

 今でこそ脂がのった「大トロ」や「トロ」は高値で取り引きされ、人気の部位となっていますが、当時は脂がしょうゆをはじいて保存性が上らないという厄介な部位で、流通過程で傷んでしまう事が多いため、肥料にされたり廃棄されていました。

 その大トロやトロをうまく活用するために考案されたのが、鍋に出汁をはってしょうゆや酒で味を付けた割り下を作り、ぶつ切りにしたネギを煮込んでその上に適当な大きさに切ったマグロを乗せ、好みの煮え加減になったら食べるという鍋物、「ねぎま鍋」でした。

 傷みやすく風味が落ちやすい脂の臭味をネギが消してくれるだけでなく、マグロにネギの香りが移り、ネギにはマグロの旨味とこくが加わって、両素材が美味しさを高め合うという調理法で、煮込むとパサパサになってしまう赤身よりも脂身の方が美味しくなるという調理法という事もできます。

 ねぎま鍋によってネギとマグロの相性の良さが広く知られて浸透し、マグロの焼き物を作る際もネギとマグロを交互に刺して焼き上げる調理法が行われるようになり、後にマグロが鶏肉に替わる事で今日のねぎまが誕生しています。

 同じくネギとマグロというと「ネギトロ」が思い浮かびますが、こちらはネギとは関係なく、厳密にいうとトロでもありません。本来、ネギトロとは骨の隙間にある「中落ち」や筋が多い部位、皮の裏側にある脂身をこそげ落として合わせた物で、中落ちを削ぎ取る事を「ねぎ取る」といっていた事が転じて「ネギトロ」と呼ばれるようになったとされます。

 ネギトロがネギとは無縁である事を証明するように、ネギトロとして販売されている製品でネギを含んでいる物はないとされます。軍艦巻きや巻き寿司、丼などに使われるネギトロですが、ネギトロという名称とネギの不在に対する違和感が生じないように、調理する段階でネギが加えられるか薬味に添えられるのですが、その事が余計にネギとトロでできているという誤解を生んでしまいます。

 紛らわしいネギとマグロの関係ですが、ネギが添えられた事でマグロの美味しさは格段に向上するように感じられます。ねぎま鍋からはじまったネギとマグロの関係、鶏肉に替わってしまった事で忘れてしまいがちなのですが、本来はネギとは無縁のネギトロがその美味しさを思い出させてくれているようにも思えます。


 

第1858回 冬の米菓



 冬になると私の中で急激に存在感を増してくる物の一つに煎餅をはじめとした米菓があります。中でも平たく丸い煎餅が大好きで、濃い目に入れたお茶と一緒に食べはじめると止まらなくなるものを感じてしまいます。

 最近はサクサクした食感の柔らかいタイプの製品が増えてきていますが、どちらかというと昔ながらの固い煎餅が好きで、しょうゆをしっかりと染ませて艶のある褐色に焼き上げられた煎餅には、味覚以外の部分でも和まされています。

 一枚、もしくは二枚を個包装された製品が多い事もあって、袋から小袋を取り出し、小袋の封を開ける前に中の煎餅を押さえて細かく砕き、食べやすい大きさにしてから封を開けて食べはじめるのですが、その様子を見ていて、「それなら煎餅ではなく、あられの方が良くはないですか」と突っ込みが入りそうに思えるのですが、食べやすいような大きさに割った煎餅と食べやすい大きさのあられ、何かが違うように思えます。

 煎餅とおかき、サイズと形状、雰囲気といった感覚的なものではなく、明確な違いが存在します。煎餅はうるち米から作られていて、普段、炊いて食べているご飯が元になっています。おかきはもち米を使って餅を作り、それを切り分け(欠いて)て干し、焼き上げて仕上げられ、両者は原料という点で異なる物となっています。

 同じもち米から作られる米菓で、おかきとよく似た物に「あられ」があります。こちらもサイズや形状、雰囲気が異なるだけの物のように思えるのですが、実は煎餅とおかき同様、おかきとあられには大きな違いがあり、おかきが切り分けた餅を干した後に焼く事に対し、あられは切り分けた餅を煎って作られます。小さく四角に切り分けられた姿が霰に似ている、煎る際の音が霰が降る音に似ている事が名前の由来ともいわれ、焼き上げる煎餅、おかきとは違った製法である事が判ります。

 日本における煎餅の歴史は非常に古く、すでに737年頃に書かれた文書にその記載があるとされます。しかし、当時の煎餅は小麦粉を使って作られていて、今日のような米菓とは異なる存在という事ができます。

 今日の煎餅の由来としては、煎餅の名産地の一つとして知られた日光街道の宿場町、草加宿において「おせん」という老婆が営む団子屋で、旅の侍が「団子を潰して平たくして焼いてみては」と提案した事がはじまりともいわれますが、当時、すでに草加宿一帯の農家では、蒸した米を丸めて潰し、平たく成型した物に塩をまぶして干した物を焼いた「堅餅」が食べられていたとされます。

 堅餅は旅人向けに間食やお土産物として商品化されて売り出され、各地に広まっていく過程でしょうゆの名産地である利根川の沿岸でしょうゆ味となり、今日の草加煎餅の原形となったともいわれます。

 おかきの由来は餅を正月に「鏡餅」として供えるようになった事と時を同じくすると考える事ができ、年末から鏡開きまでの間に乾燥して堅くなった餅を切り分け、焼いた物が原形という事ができます。武士の時代を迎え、具足開きと呼ばれる日に「切る」という言葉が忌み嫌われた事から、餅を細かく分ける事を「切る」ではなく「欠く」と表現し、「欠き餅」を女房言葉で「おかき」と呼んだ事がおかきの由来となっています。

 あられの誕生は、おかきに繋がる必然的なものであったという事ができます。乾燥した餅は非常に堅く、包丁などの刃物では切り分ける事が難しい物となっています。そのため、刃物で切り分けるよりも木槌などで叩き割る事が行われ、ほど良い大きさの物は網で焼いておかきにする事ができますが、細かくなり過ぎて網目からこぼれ落ちてしまいそうな物はおかきにできない事から、鍋などで煎って調理した事は容易に想像する事ができます。鍋の中で小さな餅の粒が霰が降った時のような音を立てる事や、膨れて弾ける姿が地表で跳ねる霰に似ている事があられの由来と考える事ができます。

 穀物を使って団子や餅を作る事は古代から見られており、それを平たくして焼いた物の存在も確認されています。煎餅やおかき、あられの原形として見る事ができ、その歴史の古さを伺う事ができるのですが、やはり煎餅、おかき、あられは米菓でなければとこだわってしまいます。


 

第1857回 縮み事情



 初の本格的な換毛期を迎える直前から我家の猫には、それまで以上に念入りにブラッシングを行うようにしています。最盛期ほどではないにしても、すでに冬を迎えているというのにと思えるほどの量の毛が毎日抜けていて、それを集めて袋の中に保管しています。

 抜け毛が一定の量になると洗って、石鹸水を使って丸めてフェルトボールの状態にします。石鹸水を付けた手の中で最初はまとまりのなかった抜け毛が徐々にしっかりとした毛玉になっていき、黒や灰色、茶色、白といった毛色の抜け毛が、最終的には混ざり合って灰色のフェルトのような玉になります。そうしてできた「猫玉」は、紐と金具を着けてストラップにし、我家の猫と親しい人にプレゼントする事にしています。

 猫の毛に限らず哺乳類の毛の表面には、うろこ状の「毛小皮」と呼ばれる物で覆われていて、熱や圧力、振動などを加えると毛小皮が互いに引っ掛かって絡み合い、離れなくなります。フェルト化と呼ばれる現象で、シャンプーのCMで髪の毛の顕微鏡写真を使って、「キューティクル」と呼ばれるうろこ状の表面を見せてくれる事がありますが、あのうろこが引っ掛かり合うと考えるとイメージしやすいと思います。

 毛が水を含んで膨らんだ際も毛小皮は開いた形になり、石鹸などのアルカリに触れるとより開いた形になってしまいます。石鹸シャンプーを使った後、酸性のリンスで中和しないと髪がバサバサに状態になってしまうのは、水分と石鹸シャンプーのアルカリによって毛小皮が開いて絡まってしまうためで、頭の上でフェルト化を行っている事となります。

 哺乳類の毛を使ったフェルト化は古代から知られていたとされ、最古の物ではアルタイ地方のパジリク古墳群の中から帽子や靴下といった加工品が出土しています。それだけ古くから知られていたフェルト化ですが、今日でも、ついフェルト化の事を忘れてしまい、困った状況を引き起こしてしまう事があります。

 ウールのセーターを他の洗濯物と一緒に普通に洗濯してしまい、縮んでしまって着れなくなってしまうという事があります。ウールの毛小皮が水分や洗剤のアルカリによって開いてしまい、そこへ洗濯機の撹拌が加わってフェルト化が促進され、一気にセーターは縮んでしまいます。

 そのため、水を使わず有機溶剤で洗浄するクリーニングや撹拌を行わない手押し洗いがウールの洗浄方法の中心となるのですが、最近では洗剤の発達もあって、そこまで気を使わなくても洗濯機で洗い上げる事ができるようになってきています。

 皮脂や油など衣類の汚れは酸性のものが多く、それをアルカリ性の洗剤で中和しながら洗浄していたのですが、ウール洗い用の洗剤は毛小皮が開かないように中性の洗浄剤を使い、コート剤を加えて毛小皮をコーティングする事で絡みにくい状態にしてフェルト化が起こらないようにして、縮まないようにするという工夫が行われています。

 最近では撹拌が緩やかな縮み防止のソフトな洗い方をしてくれる洗濯機も登場し、洗剤と併せてウールは家で気軽に洗えるものとなってきています。子供の頃、お気に入りのセーターを洗濯機で洗われてしまい、二度と着れないくらい縮んで悲しい思いをした事があります。

 こうなってはどうしようもないといわれ、泣く泣く捨ててしまったのですが、今だったらフェルト化を解除するためにリンスなどのヘアコンディショナーを溶かしたお湯に漬け込んだり、アイロンのスチームを当てたりして伸ばしたりといった対策法も知っているのにと思ってしまいます。

 先日、フェルトの生地を購入した際、生地を切り分けてくれた店員さんがその生地は洗濯が可能な生地だと教えてくれました。あらかじめ毛小皮を除いておくか樹脂で表面をコーティングする事で滑らかにしておき、洗濯してもフェルト化による縮みが起こらない加工が施されているようです。洗剤、洗濯機、表面加工、フェルト化による縮みは過去のものとなってしまったのかもしれません。


 

第1856回 貝のカニ



 以前、アサリを買ってきて砂抜きをしようとボウルに薄めの塩水をはり、アサリを入れていたところ出水管から勢いよく水を吐き出しはじめ、台所を水浸しにされた事があります。仕方なくもう一つのボウルをふた代わりに被せ、風呂場に翌朝まで置いておいたところ、小さなカニがたくさんアサリの中から出てきていました。

 そのままアサリと一緒に調理するのも可哀想なので、とりあえずアサリだけ取り分け、空いていたペットボトルに入れて川沿いに道を下り、海まで行って波が穏やかそうな場所に放してきたのですが、それ以来、アサリがとても面倒な食材に思えています。

 アサリに入っているカニは、その大きさから赤ちゃんカニと呼ばれたり、成長途中のカニと思われがちですが、れっきとした大人のカニとなっています。カニは卵から孵るとゾエアと呼ばれるカニにあまり似ていない幼生期に入り、その後、メガロパ期になって少しカニらしい姿となり、稚ガニになってはじめて本来の姿となる事から、アサリに入っているカニは成長しているものである事が判ります。

 アサリの中に入っているカニは「カクレガニ」というカニで、その姿に似合った「ピンノ」という可愛い名前を持っています。アサリの場合、カクレガニ科シロピンノ属のカギツメピンノやオオシロピンノが見られる事が多く、タイラギの中にはタイラギピンノ、シジミの中にはシジミピンノといったように、貝によって異なるピンノが見られます。

 ピンノが貝に入っている理由については、「貝がカニを食べようとしていた」「カニが貝を食べようとしていた」といわれる事もありますが、ピンノは硬い殻を持つ貝に身を守ってもらいながら、貝が食べようとするプランクトンを分けてもらって生活しています。

 ピンノが卵から孵り、ゾエアとなって浮遊しながら脱皮を繰り返してメガロパを経て稚ガニになる頃、貝の入水管から中へ入り、貝の中での生活を開始します。貝の中で生活するのは雌だけで、雄は貝には入らず、雌よりもとても小さな体を活用して繁殖の時だけ貝の入水管を使って貝の中に入るという生態を持っています。

 海に放したカニ達がどうなったのかが気になって、いろいろと調べていると「ピンノは貝に寄生しているため、寄生環境から離れると生存できない」という意見があり、カニ達の生存を絶望視した事もあるのですが、砂抜き程度の事で生存にも関わる寄生環境外に出てくる事があるのかと疑問を持ってしまいます。

 詳しく調べてみるとピンノは貝の中にいる事によってのみ生存が可能という訳ではなく、結婚相手を探して群れを成して泳ぎ回ったり、貝の中にいずに泳ぎ回ってばかりいる個体もいるという事で、貝を離れても生きていける事や稚ガニの時期にしか貝の中に入れないという事ではない事が確認でき、一安心しています。

 砂抜き用の塩水は海水に近い塩濃度にしているとはいえ、海水のような豊富な栄養分は含んでいません。アサリの入水管から異常な海水が取り込まれるようになったので、様子を見に出てきたのか、全くプランクトンが入って来なくなったので、住処にしていた貝を代えようとしたのか、それともアサリが異変に気付き、「私はもう駄目かもしれない、君だけでも逃げなさい」といったやり取りがあったのかなどと、いろんな事を考えてしまうのですが、そんな事を考えていると、またアサリが食べられなくなってしまいます。


 

第1855回 回転文化



 かつてバブルと呼ばれた時代、学生の身ではあったのですが、知り合いに連れて行かれ、価格が明確でない寿司屋に行った事があります。店主お薦めのマグロを2貫と赤貝、卵焼きをお願いし、店を出たのですが、一人分が1万円近い金額を請求されてしまい、それ以来、明朗会計の寿司屋以外は怖くて入れなくなっています。

 そんな私にとって皿の数や柄などで料金が明確な上、安価なだけでなく同じネタをいくつも連続して食べても変な顔をされない回転寿司はとてもありがたい存在となっていて、寿司というと真っ先に思い付くものともなっています。

 回転寿司の発祥は東大阪市とされ、少しでも安く寿司を提供し、気軽に寿司を食べてもらおうと白石義明が1947年に立ち食いの寿司屋をはじめた事に端を発します。

 立ち食いの寿司屋は大評判となり、連日の盛況となったのですが、客が増えて店が混雑してくると従業員不足に陥り、日々充分な接客ができない事に頭を悩ませる事となっていました。

 客との会話の中で工場のベルトコンベアシステムの事を聞き、それをヒントにビール工場へ見学に行き、多数の客の注文に同時に対応できる低コストで合理的な方法として、旋回するベルトコンベアに握った寿司を乗せて提供する「コンベア旋回食事台」を考案します。

 1958年に世界初となる回転寿司店となる「元禄寿司」をオープンさせた白石は、4年後の1962年に「コンベア旋回食事台」を「コンベア附調理食台」として実用新案登録を行い、一号店の開店から10年後の1968年にはフランチャイズ展開が開始され、1970年の万国博覧会では出展していた元禄寿司が表彰されて一気に回転寿司の知名度が高められています。

 1978年に「コンベア附調理食台」の実用新案としての権利が切れると、さまざまな企業による新規参入が相次ぎ、元禄寿司のフランチャイズ加盟店でも独自のブランドを掲げて独立するといった事も見られ、一気に競争が激化していきます。

 当初、元禄寿司によって「回転」「廻る」「まわる」といった言葉が商標登録されていた事から、元禄寿司以外の店舗では回転寿司という名称を使う事ができなかったのですが、1997年に元禄寿司によって「回転」の使用が開放された事から、今日では広く回転寿司の名称が使われるようになっています。

 1997年にはロンドンで「Yo!Sushi」のチェーン展開が開始され、1999年にパディントン駅構内のプラットホーム上に回転寿司店が出店された事で大きな注目を集め、イギリスでの回転寿司人気は不動のものとなり、回転寿司という文化が世界的なものとなった事が伺えます。

 回転寿司が人気となった理由の一つとして、それまで高級で敷居の高い料理であった寿司を気軽に食べられるようになったという事が考えられます。ファミリーレストランをはじめとする一般的な外食産業の原価率は30%程度とされる事に対し、もともとが高級料理であった寿司を扱う回転寿司店では原価率が50%近くにもなってしまいます。

 それを可能な限り安く提供しようとする事から、一部の店舗では代用魚が用いられてコストの削減が行われいるとされ、商品表示の適正化という点で問題視された事があります。

 白身のティラピアやマンボウはタイとして出され、スズキはナイルパーチ、アワビはロコガイ、マダイやヒラメ、アイナメなどはチャネルキャットフィッシュが使われたりもしていて、改定されたJAS法ではそうした名称を使わない事を求めています。

 しかし、公正取引委員会では回転寿司の場合、そのような安価な値段で本物の食材が使われているはずがない、代用魚でも充分に美味しいのだから、あえて馴染みのない名称を使う必要がないといった認識を多くの消費者が持っていて、回転寿司店の繁盛がそうした考えを支持している表れとして排除命令を出す事は難しいとしています。

 最近では回転している皿だけでなく、タッチパネルによって注文するというスタイルも定着してきています。タッチパネルというと、急速に普及してきたタブレット型の端末の得意分野でもあります。テクノロジーの発展と食文化が結び付いて、新たな展開を見せてくれる、そんな感じが昨今の回転寿司にはしてしまいます。


 

第1854回 締めの作法



 我家の炊飯器はご飯を美味しく炊いてくれるのですが、保温は苦手らしく、残ったご飯をそのままにしておくと加速度的にご飯が不味くなってしまいます。そのため炊き立てのご飯をいただき、残ったご飯はラップで小分けして冷凍し、その都度、電子レンジで温めて食べるようにしています。

 以前、お米関連の仕事をしている方から、残ったご飯を保温したままにしておく事や、冷ご飯にして冷蔵庫で保存するのは、わざわざご飯を不味くしているようなもので、ご飯を美味しく保存したかったらすぐに冷凍するのが一番と聞かされた事が元になっていて、保存が利く冷凍ご飯は一食分だけご飯が必要になった際などに重宝しています。

 かつて炊き上がったご飯は、おひつに入れられて保管されていました。木製のおひつは保温性があり、ご飯の水分を適度に吸収してくれる事からご飯を美味しく保管する事ができるのですが、やはり時間が経つと冷ご飯となり、固いパサパサの状態になってしまいます。

 電子レンジや保温できる電子ジャーなどがない時代、そんな冷ご飯を手っ取り早く美味しい状態にして食べる方法として「湯漬け」や「汁かけ飯」があり、特に味が付いた汁物をかけていただく汁かけ飯は人気となっていた事が当時の料理書などから伺う事ができます。

 享和2年(1802年)に刊行された米飯料理の専門書、「名飯部類」の87種類の米飯料理のうち44種類が汁かけ飯で占められ、享和3年(1803年)刊行の「素人包丁」では、米飯料理部門の36種類すべてが汁かけ飯となっていて、盛んに食べられていた事が判ります。

 米飯料理に関しては「五目飯」の記載も見られるのですが、天明4年(1785年)刊行の「万宝料理献立集」に記載された「芥飯(ごもくめし)」、享和元年(1801年)刊行の「料理早指南」の「ごもく飯」共に器に盛り付けたご飯の上に具材を乗せ、出汁をかけていただく汁かけ飯となっていて、今日の五目飯とは異なる物となっています。

 「名飯部類」にも「骨董飯(ごもくめし)」、「素人包丁」にも「ごもく飯」が登場するのですが、こちらはご飯が炊き上がる直前に具材を入れて蒸らし、釜の中で混ぜ合わせて器に盛り、出汁をかけていただくやはり汁かけ飯となっていて、汁かけ飯が好まれていた事や、かつては五目飯も汁かけ飯であった事が判ります。

 江戸時代、そこまで汁かけ飯が好まれた背景には、美味しさや食べやすさだけでなく、戦国時代に確立された作法が関係していると考える事ができます。

 客人に食事を出してもてなす際、客人がご飯に汁物をかけたら「もうお腹一杯になったので、これをもって最後にします」という意思表示であり、それ以上料理を出して勧めてはいけないとされていました。

 平和な時代を迎えて庶民の生活や調理技術が向上し、さまざまな料理が食べられるようになります。贅を凝らした料理の後に締め括りという意味も含めて、あっさりとした出汁がかけられた汁かけ飯が好まれた事が考えられます。

 宴席が思いのほか盛り上がり、話が長くなってしまって締めに用意していたご飯が冷えて固くなっても、熱い汁物をかければ温かく柔らかいご飯として食べる事ができます。冷めてしまっても汁がかけてあればご飯が固くなる事もなく、汁かけ飯は保温や再加熱が容易ではなかった時代の知恵のようにも思え、好まれていた理由が解る気がしてしまいます。


 

第1853回 丼の誕生



 主食であるご飯とおかずが一つの器の中に入れられ、手軽に一食を摂る事ができる「丼物」は手早く食べられる便利な食事形態というだけでなく、最近はご当地グルメブームもあって、かなり豪華な物まで見られるようになってきています。

 器に盛り付けたご飯に具を乗せるという単純な構成の丼ですが、意外なほど食文化としての歴史は浅く、最も古いとされる「鰻丼」でさえ始まったのは江戸時代の中期以降の事となっています。

 鰻丼は水戸藩の郷士で後に勘定奉行を務めた大久保今助によって考案されたとされ、その後、評判となった事から鰻屋の正式なメニューとなり、明治時代を迎えるまでは丼といえば鰻丼の事を指していました。

 江戸の街で好まれていた「深川丼」の登場は江戸時代の末期の事で、牛丼は1862年、親子丼は1891年と明治時代に入ってから、カツ丼の登場はソースカツ丼が1913年、卵でとじるカツ丼は1921年と大正時代の事となっています。

 鰻丼以前に存在した丼のような料理というと、「芳飯(ほうはん)」を上げる事ができます。芳飯は室町時代の末期に登場した料理で、器に盛り付けたご飯に野菜を中心とした7種類の具を乗せ、出汁をかけていただく物で、江戸時代、寛永20年(1643年)に書かれた「料理物語」には、「芳飯にかける出汁はにぬきが美味しい」と記されています。

 にぬきとは水に味噌を溶き、削った鰹節を加えて煮立たせて濾した物で、後に味付けは味噌からしょうゆへと変化し、ご飯も白飯から炊き込みご飯が使われるようになり、丼というより汁かけ飯に近い物であった事が判ります。

 丼の語源は江戸時代、大きめの器に一杯盛り切りの食事を出す店を「慳貪屋(けんどんや)」と呼んでいました。慳貪屋で使われていた食器が「慳貪振り鉢(けんどんぶりばち)」と呼ばれていて、それが省略されて「どんぶり鉢」となったとされます。

 慳貪とは「けちで欲深い」という意味で、慳貪屋で出されていた食事は「慳貪飯」と呼ばれ、あまりよい印象を得ない事から、丼の語源としてはどうなのかとも思えてくるのですが、八丈島の方言でどんぶり鉢の事を「けんどん」と呼ぶ事から、どんぶり鉢が慳貪屋由来という事を伺う事ができます。

 また、同じ頃、更紗などで作られた大きな袋も「どんぶり」と呼ばれていて、その語源は無造作に物を袋に入れる様子から、水に物を放り込んだ際の擬音である「どんぶり」にあるとされ、今日でも使われる大雑把なお金の管理を指す言葉、「どんぶり勘定」は職人の前掛けに付けられた物入れに職人がお金を無造作に出し入れする事からそういわれるようになったとされ、大きな器を袋に見立てて「どんぶり」と呼んだ事も充分に考えられます。

 漢字で表記する際の「丼」は井戸を意味する「井」の中心に「、」を書いたもので、井戸の中に物を投げ込んだ音を指す文字となっています。大雑把にいろんな物を入れる大きな器とそれをうまく利用した盛り切りの料理、それが丼物というのが最適なようにも思えてきます。


 

第1852回 工業製品?



 スプラウトというと穀物や豆、野菜の種子などを発芽させた新芽の事で、芽や茎を食べるどこか新しい野菜という感じがします。ブロッコリーやマスタード、クレソン、レッドキャベツや最近では蕎麦のスプラウトも見られ、古株ともいえるカイワレ大根と共に並べられています。

 穀物や豆、種子類は発芽して逞しく成長するための成分が凝縮されていて栄養豊富な内容となっているのですが、発芽する際、酵素の働きによってそれまでは含まれていなかった成分が作り出される事から、スプラウトは発芽する前よりも多くの成分が含まれ、より栄養豊富な物となっています。

 日本では、本格的にスプラウトとして発売されたのが1999年の事で、それ以降、急速に普及した事から新しい野菜というイメージがありますが、実はスプラウトの歴史は非常に古く、人類が種子を保存し、発芽させるようになった頃から食べられていたと考える事ができます。

 スプラウトという事で馴染みがないように思えるのですが、「もやし」というと急に慣れ親しんできた物と思えてきます。もやしは5000年前の古代中国ですでに栽培されていて、日本でも平安時代に書かれた最古の薬草書、「本草和名」に「毛也之(もやし)」として登場します。

 日本では古い時代、もやしは薬用とされていて、江戸時代に書かれた「和漢三才図会」には、「黒豆をもやしにして芽が五寸ほどの長さになったところで乾燥させ、よく煎って服用すると痺れや膝の痛み、筋のひきつりなどに効く」と記され、もやしが薬用であった事が伺えます。

 栄養的な評価もされていて、南北朝時代には楠木正成が籠城した際、兵士たちに豆を発芽させた豆もやしを食べさせ、籠城という食糧事情の悪化した中でもしっかりと栄養を確保していたとされます。

 穀類や豆、種子にはほとんど含まれないビタミンCですが、もやしにする事で急速にビタミンCが生成されます。かつて長期間にわたる航海を行う船乗りにとって、新鮮な野菜が不足するために起こるビタミンCの摂取不足が深刻な問題となっていて、ビタミンCの欠乏によってさまざまな組織間を繋ぐコラーゲンの生成ができなくなると、命に関わる「壊血病」を引き起こしてしまう事が大きな問題となっていました。

 18世紀の後半に南太平洋を航海したキャプテン・クックは、食料として積み込んでいた大麦を発芽させてもやしを作り、船員に栄養補助食として与える事で航海中の壊血病対策を行っていたとされます。

 日露戦争の際、勝敗の分かれ目となった旅順に籠城していたロシア軍の中に、食糧事情の悪化から壊血病が蔓延していた事が敗因の一つとされ、戦闘終了時、食料保管庫には一ヶ月分の大豆と小麦が残されていた事から、ロシア軍にもやしによる壊血病の予防に関する知識があれば戦局が大きく変わった事も考えられ、もやしが歴史を変えた可能性も考えられます。

 それだけ有用な食材であるもやしですが、江戸時代までは薬用としての色合いが濃かったせいかそれほど食べられてはおらず、本格的な大規模生産が行われるのは明治時代に入ってからの事となっています。

 大規模に生産されるようになったもやしは、その頃から増えはじめた中華料理店に納品されるようになり、少しずつ庶民にも馴染みのある食材となっていき、本格的な普及は第二次大戦後の事となります。

 最近では、売り場へ行けば数種類のもやしを見掛ける事ができます。太さや長さが違う物、根が切られた物などがあり、もやしを作る際の水にこだわったという物も見られます。そんな中に名水のこだわりながら「有機栽培」や「オーガニック」という製品を見掛ける事がありません。

 もやしは種を水に浮かべて発芽させる事から、土壌から育成された農産物が対象となる有機栽培やオーガニックといった認証を受ける事ができず、有機やオーガニックといった名称の使用ができなくなっています。

 もやしの生産に関わる人達の組合の名称を見てみると、農産物の生産を行う「生産者組合」ではなく、「工業組合」となっています。生命の息吹とそれをうまく利用する人の知恵、それらが融合したもやしですが、土から離れてしまったために農業と認められていない事に、何となく寂しさを感じてしまいます。


 
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