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第1869回 見えない効果



 以前、使っていたCS放送のチューナーが壊れ、急にリモコンを受け付けなくなってしまった事があります。とりあえず本体の異常なのか、リモコンの方が壊れているのかを知るために携帯電話のカメラを起動して、カメラのレンズに向かってリモコンを操作してみました。

 携帯電話の画面には、通常は見る事のできないリモコンの先端部分が点滅する様子が映っていて、リモコンは正常に機能している事を知る事ができました。

 テレビやビデオなどリモコンで操作する機器には、「フォトダイオード」という部品が入っていて、フォトダイオードによって赤外線を感知してリモコンからの指示を受け取っています。

 携帯電話のカメラには、「イメージセンサー」と呼ばれる部品が使われていて、フォトダイオードと同じ原理で稼動しているため、フォトダイオードと同じように赤外線を感知する事ができます。

 フォトダイオードとイメージセンサーの最大の違いは、フォトダイオードには赤外線だけを通すフィルターが付けられていますが、イメージセンサーには可視光線だけを通すフィルターが付けられています。

 しかし、可視光線だけを通すはずのフィルターは完全に赤外線や紫外線をカットしてくれる訳ではなく、僅かに赤外線や紫外線を通過させてしまいます。それが映像化されて、肉眼では見る事ができないリモコンの点滅を映像化して見せてくれます。

 普段はリモコンなどで身近に接していながら直に見る事がなく、どこか馴染みの薄い感じがしてしまう赤外線ですが、「遠赤外線」といわれると急に美味しく暖かなものに思えてきてしまいます。

 赤外線は赤い色の光なのですが、肉眼で見る事ができる可視光線よりも波長が長く、目に見えない光となっています。その中で特に波長が長い光を遠赤外線と呼んでいて、光の性質として当たった物の分子を振動させて熱を発するというものがあるのですが、遠赤外線はその波長の長さから表面だけでなく、中までムラなく熱を伝える事ができるとされています。

 遠赤外線が美味しく調理できる代表的な例として、「石焼き芋」がよく上げられます。石焼き芋は熱源としてガスや薪を使うのですが、熱の伝導に石を使っていて、石から発する遠赤外線でサツマイモの中までゆっくりとムラなく熱を伝える事ができ、ゆっくりと均一な熱伝導を行う事よって酵素がデンプンを糖化して甘味が増し、他の調理法よりも甘くふっくらと仕上げる事ができています。

 それ以外では、魚の焼き上がりのよさがいわれる事があります。遠赤外線によって中までふっくらと焼けるとされ、下部に遠赤外線を発っするセラミックスをコートした網などを備えた焼き網も見られ、遠赤外線の効果を家庭のガスコンロでも得られるようになっています。

 暖房器具にも遠赤外線によって体を芯まで温める事が特徴という物も多く、決して肉眼で見る事はできませんが、日常生活において意外なほど馴染み深いものとなっています。


 

第1868回 高分子に感謝



 以前、介護をしていた際、紙おむつを買いに行くと売り場にはさまざまなメーカーのいろんな商品が並べられていました。その中に同じメーカーの同じブランド、中に入っている枚数やサイズも同じなのに価格が違う物があり、何が違うのだろうと見比べた事があります。

 よく似たパッケージを並べてみると、両者の違いは何回分の尿を吸収できるかというもので、回数が多い方が価格が高くなっていたのですが、一、二回ですぐに取り替えられてしまう物なので、もっと吸収回数が少なくて安価な物があればと思ってしまいました。

 紙おむつの存在が介護や育児をずいぶんと楽なものにしてくれたといわれます。文字通り紙でできたおむつが充分な吸水力を持つ事ができる秘密は、中に含まれる「高分子ポリマー」によるもので、「高分子吸収体」や「高吸水性高分子体」とも呼ばれる高分子ポリマーの働きによって紙おむつは圧倒的な吸水性を持っています。

 紙おむつの歴史は意外と古く、第二次世界大戦中の事となっています。ナチスドイツによって経済封鎖されたスウェーデンでは、1940年代の半ばには綿花の輸入が完全に止まってしまい、極端な綿布不足となり、育児に必要なおむつを生産する事ができなくなっていました。

 苦肉の策としてスウェーデン政府は、綿布に代わる物として紙の使用を推奨し、考案されたのが吸水性のある紙を何枚も重ね、メリヤスの袋で覆った簡単な紙おむつでした。

 苦肉の策として考案された紙おむつですが、実際に使用してみると取替えが簡単で、吸水性も布のおむつと遜色がなく、使い捨てにできるという手軽さもあり、人気となって普及していきます。

 高分子ポリマーはトウモロコシのデンプンを研究している最中、偶然発見されています。トウモロコシのデンプンにアクリル繊維や合成樹脂の原料であるアクリロニトリルを反応させたところ、自分自身の重さの数百倍もの重さの水分を吸収する事ができる物質が得られ、アクリロニトリルもトウモロコシのデンプンであるコーンスターチも盛んに製造されていた事から、安価に製造できて強力な吸水力を持つ物質として誕生しています。

 1974年に登場した高分子ポリマーと紙おむつが出会うのは1984年の事で、最大で自重の1000倍もの水分を素早く吸収し、一度吸収した水分は多少の圧力では放出しないという高い保水性を持ち、無色、無臭の高分子吸収体は理想の素材であったという事ができます。

 すでに表面に使われるポリプロピレン製の不織布は開発されており、水分を速やかに中の吸収体へと通過させる事ができていました。それまで吸収剤として使われていた綿状パルプが高分子ポリマーに変わった事で、紙おむつの性能は飛躍的に向上したとされます。

 紙おむつにとって理想的な素材である高分子ポリマーですが、意外な弱点があり、吸収する水分にナトリウムやカリウムといった陽イオンが存在すると、著しく吸水力や保水性が低下してしまうという性質を持っています。

 尿にはナトリウムやカリウムが含まれる事から、自重の1000倍もの水分を吸収する高分子ポリマーの性能は著しく低下し、30~70倍程度の量しか吸収できなくなってしまいます。

 それでも紙や綿、スポンジなどの吸水力が自重の10倍程度である事を考えると非常に優れた吸収材であるという事ができ、吸収材が少なくてすむ事から紙おむつを薄くコンパクトにする事が可能となり、吸収材からの逆戻りや漏れもなく、購入時の持ち運びやゴミの減少、使用者の動きやすさといった多くのメリットをもたらしてくれています。

 よく一か月分という大量の紙おむつを買い置きしていたのですが、運搬にそれほど大変な思いをせずに済んだのは高分子ポリマー故の事と今頃になって感謝しています。


 

第1867回 奪わずに得る物



 「人とは罪深い生き物で、他の生き物から奪う事でその日の糧を得て、命を繋いでいる」という話をよく聞かされます。それ故に食材に感謝して無駄にしないようにし、美味しく食べられるように調理するのですが、素材を活かし切れているのかと日々料理しながら疑問に思ってしまいます。

 日頃から接している食材を眺めていると、植物が光合成によって無機物を有機物に変え、それを草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べるという食物連鎖を意識する事ができ、人もその連鎖の中にしっかりと組み込まれている事が判ります。

 そんな日常の食材の中で、食物連鎖とは無縁で生き物から奪う事なく得られている物、それは「塩」ではないかと思います。基本的な調味料であり、生命を維持する上でも欠かせない塩は、海水を乾燥させるか岩塩として採掘するといった方法で得られています。

 かつて狩猟が食糧確保の中心的手段であった頃は、獲物の体に含まれるナトリウムが豊富に供給されていた事から、あえて塩分を摂る必要はなかったのですが、農耕がはじまって穀物が食料の中心となるとナトリウムの摂取量は減り、変わりに植物に多いカリウムの摂取量が増えます。

 体内でナトリウムとカリウムは対になって作用する事が多く、余分なカリウムを排出するためにはナトリウムが必要となります。塩を必要とするようになった背景には、農耕という新たな文化の台頭があったと考える事ができ、農耕が行われるようになった頃と時を同じくして塩作りが行われるようになっています。

 日本で塩作りが行われるようになったのは稲作が行われるようになった縄文時代の事と考えられ、最初の塩作りは海藻を焼いて灰を得るというもので、塩味以外にも灰由来の苦味を伴う物であったとされます。

 その後、海藻を焼くのではなく天火で乾燥させ、それに海水をかけて塩分濃度が高い塩水を作り、土器で煮詰めるという「藻塩」が登場し、今日の塩に近い物が利用されるようになっています。

 日本は四方を海に囲まれている事から、塩を得る事は容易であったように思われますが、雨が多く湿度が高い気候である事から、塩作りには向かない土地柄とされていて、塩作りは困難な作業であった事が考えられます。

 そのため古い時代、塩は貴重品となっていましたが、時代と共にさまざまな工夫が加えられ、塩田によって塩作りが行われるようになると安定的な供給が可能となり、基本的な調味料として定着し、漬物や干物という日本の食文化と結び付いていきます。

 塩田による塩作りは千年以上も続けられていて、砂に海水をまいて乾燥させながら塩分を濃縮する「揚浜式塩田」は平安時代に考案され、海の干潮を利用して海水を塩田に引き込む「入浜式塩田」は室町時代に考案され、いずれも昭和になるまで続けられていました。

 非常に塩辛く感じる海水ですが、実は塩分は3%しかなく、それを濃縮して塩を得る事は大変な作業といえます。今日では非常に効率のよい「イオン交換膜製塩法」が行われ、かつての重労働ではなくなっています。奪う事なく手に入る食材、塩は奪うのではなく交換して手に入れる物となっています。


 

第1866回 畳の間


 我家には畳の部屋は一階の和室一間のみで、他の部屋は全てフローリングとなっています。ライフスタイルを考え、畳の上に座るという事が少なそうに思えた事と、畳の管理の面倒さを思っての事ですが、今になって畳の面積をもう少し多めにしておけばよかったと思っています。

 畳は日本固有の建材で、床に敷き詰められる床材の一種となっています。年間を通して湿度が高く、暑い夏と寒い冬という大きな気候の変化を持つ日本に適した建材とされ、湿度が高い時は湿度を吸収し、湿度が低い時は吸収していた水分を放出するという調湿効果があり、断熱性にも優れているとされます。

 畳の歴史は非常に古く、「古事記」には「瓦畳」「皮畳」「絹畳」といった記載が見られ、奈良時代にはすでに畳の原形となる物が存在していた事が判ります。

 畳の語源は、使用しない時はたたんでしまえる物、重ねられる物という事にあるとされ、当初は「薦(こも)」や「筵(むしろ)」のような敷物であったと考える事ができ、「万葉集」にも「畳薦」という記載がある事から、薦の一種とされていた事を伺う事ができます。

 聖武天皇が木製の台に敷いて使用した「御床畳(ごじょうのたたみ)」が今日の畳の原形ともされ、平安時代に入ると寝殿造りの貴族の館において、寝具や座具として板敷きの床に一部だけ敷いて使う物として使用されるようになっています。

 鎌倉時代には、今日のように部屋全体に敷き詰める方式が登場し、客をもてなすための座具や寝具から床材へと畳の用途は変化しています。室町時代には茶室の影響を受けた数奇屋風の部屋や書院造の屋敷が造られるようになり、畳を部屋に敷き詰めるという事が広く一般化し、茶の湯の影響で正座が一般化した事もあり、畳は欠かせない床材となっていきます。

 畳の優れた点は調湿効果や断熱性に限らず、防音効果やクッション性、空気の清浄作用などがある事が知られています。特に空気の清浄作用は二酸化窒素やベンゼン、トルエン、キシレン、エチルベンゼンといった有害性の高い物質を吸着してくれるとされ、建材に含まれる化学物質が問題視される現代の家屋において良い働きを持っている事が判ります。

 新しい畳は雨が続くと畳表に薄っすらとカビが生じます。それを拭き取ってやる事を数回繰り返すと、カビが生える事もなくなり、年に2回ほど干してやる事で非常に長期にわたって使用する事ができる優れた床材となっています。

 最近ではフローリングの床が一般化し、その一部にクッションやカーペットの一環として畳を敷く例も見られています。どこか平安時代に逆戻りしたような感じがしますが、日本固有の住文化である畳が見直される日が来る事を願ってしまいます。


 

第1865回 イカを揚げる



 子供の頃の正月休みの事を思い出していて、そういえば最近、「凧揚げ」をしている子供達を見かけていないし、自分自身、せっかく広い空地に囲まれた南阿蘇に住みながら、凧揚げをしていないなと思ってしまいました。

 学生の頃、スポーツカイトが趣味という方から熱心に誘われた事があるのですが、凧とは思えない本体価格に驚き、当時、アルバイトもしていなかった身としては断念するしかないと思った事が、凧との最後の関わりとなっていた事が思い出されます。

 子供の頃は家から歩いて行ける距離に3軒の駄菓子屋があり、そのうちの1軒には冬になると決まって竹製の骨組みに和紙を貼った本格的な「奴凧」が売られていました。その頃、凧というと昔話などで見かける存在でもあったので、好奇心に駆られて幾度か購入してみた事はあるのですが、本格的な和凧でありながら子供の小遣いでも購入できる価格という事で、加工精度がそれほど高くない事や、凧の原理を理解しておらず、不恰好に思えてしまう尻尾をほとんど付けていなかったために上手く揚がったという記憶はありません。

 凧の発祥は中国とされますが、世界各地に伝統的な凧が見られ、中国から伝えられた物以外にも各地で自然発生した物が存在すると考える事ができ、風に舞う紙を糸で繋ぎ止める事によって浮力を得て、大空を自由に飛ばすという発想は自然とたどり着くものなのかもしれないと思えます。

 古代ギリシャでは紀元前400年頃に科学者のアルキタスが敵陣との距離を測る道具として凧を考案したとされ、同じ目的で紀元前200年頃の漢の韓信が凧を考案したと伝えられていて、当初は子供の遊びというより軍事技術の一環であった事が伺えます。

 その後、凧は占いなどと結び付き、凧の揚がり方で豊作や凶作を占ったり、戦の行方を占ったりという事が行われています。宋の時代には、度々盗賊に襲われていた村が占いに従って村人総出で凧揚げを行ったところ、その村だけが盗賊に襲われなかったという言い伝えも残されていて、凧が特別な存在となっていた事が判ります。

 日本の凧は、平安時代以前に中国より伝えられたと考えられています。平安時代には、豊作を祈願するための重要な道具となっていたのですが、戦乱が増えてくると戦の道具としても使われるようになっていきます。

 江戸時代になると平和な時代を背景に浮世絵をはじめとした絵画が発展し、凧にも影響を与えて色鮮やかな絵柄の凧や、店の屋号や家紋が描かれた宣伝用の凧が登場します。

 そんな凧が子供の遊びとして定着するのは江戸時代の後期の事で、貴重品だった紙の量産が可能となり、価格が下がって凧を安価に製造できるようになった事が大きな要因として上げる事ができます。

 凧を上手に揚げる上で最も重要なのは、左右のバランスであるとされ、左右のバランスが取れてさえいれば凧は多少難があっても揚がるといわれます。その左右のバランスの狂いを曖昧にして凧を揚がりやすくしてくれるのが尻尾の存在で、長い尻尾を垂らして空を泳ぐ姿から、中国から「紙鳶(しえん)」として伝えられた凧は関西を中心に「イカ」と呼ばれるようになります。

 18世紀の後半に書かれた各地の方言を記した「類物称呼(るいぶつしょうこ)」には凧の事を「イカノボリ」と記してあり、今日の「凧揚げ」は「イカ揚げ」であった事が判ります。

 関西のイカが江戸に伝えられ、江戸凧として独自の発展を遂げはじめると、江戸前で盛んに獲られていたタコの方がイカよりも馴染みがある事や、「関西でイカなら関東ではタコ」といった江戸っ子の気質が重なってイカの呼称はタコへと変化し、今日の「凧揚げ」となっています。

 江戸の街で大人気となった凧揚げですが、その衰退は意外なほど早くから始まっていて、明治維新以降、街の構造の変化、特に電線や電柱が増えてしまった事が凧揚げができる場所を制限し、凧が揚げられなくなる原因となっています。

 凧が歴史的に脚光を浴びる最も大きなエピソードの一つに、ベンジャミン・フランクリンの凧揚げがあると思います。ベンジャミン・フランクリンは雷雨の中、凧を揚げて落雷を凧で受ける事で雷が電気である事を証明しています。

 ベンジャミン・フランクリンの実験は幸運が幾つか重なった結果とされ、実際に凧を使って落雷の実験を追加試験しようとした研究者の中には感電死してしまう例も見られていて、不用意に電線近くで凧揚げを行う事の危険性を感じさせてくれ、電線の増加が凧揚げを減少させた事に納得してしまいます。

 今日、電線の地下への埋設が進み、電線自体をあまり見かけなくなりましたが、凧を揚げる充分なスペースの減少や凧以外にも面白い遊びが増えた事が凧揚げを見かけなくなってしまった理由かと、少々寂しいものを感じています。


 

第1864回 愚者毒の除去



 砒素というと、とても危険なイメージがあり、無味無臭、無色である事から、古い時代は相手に気付かれずに徐々に弱らせ、病気のように見せかけて暗殺する事ができるとして「賢者の毒」と呼ばれ、検出方法が確立されてからは、体内に残留しやすく毛髪などでいつごろから投与されはじめたのかを知る事ができるようになり、使用すると発覚しやすい事から「愚者の毒」と呼ばれるようになっていました。

 有名なところでは、皇帝の座を追われ、セントヘレナ島に流刑になって病死したナポレオンの毛髪から、通常の人の10倍もの砒素が検出されている事から、ナポレオンは病死ではなく、砒素によって暗殺されたのではともいわれています。

 日本では粉ミルクに砒素が混入した事で起こった「砒素ミルク中毒事件」や、近年では「和歌山毒物カレー事件」などが砒素が関係した急性中毒の事例として上げる事ができます。

 砒素の最も困った点は化学物質のような化合物ではなく、元素であるという事で、元素である以上、分解するという事ができなくなっています。

 そんな砒素を土壌中から除去する技術として、以前、シダを利用する方法が報告されていました。シダには土壌の砒素を取り込み、貯め込む性質がある事から、砒素で汚染された土壌でシダを栽培し、豊富に砒素を取り込んだシダを収穫して処分すれば土壌中の砒素を取り除く事ができます。

 砒素による弊害が生じる場合、水を介して体内に入り込むか空気を介して体内に取り込まれる事が考えられます。特に飲料水の砒素汚染は深刻な問題となる事があり、地層に含まれた天然の砒素によってその土地特有の風土病が引き起こされている事も確認されていて、台湾の鳥脚病やアルゼンチンの甲状腺腫は飲料水に含まれる高濃度の砒素が原因と考えられています。

 シダによる除去は土壌中の砒素を対象として、飲料水に溶け込んだ砒素を除去する事には残念ながら対応できません。先日、そんな飲料水中の砒素を除去する技術が開発され、砒素に汚染された飲料水に困る発展途上国での活躍が期待されています。

 新たに開発された技術は酸化アルミニウムの粉末に5ナノ(1mmの20万分の1)ほどの極めて小さな穴を開け、その穴の中に砒素を吸収する化合物を入れた物を吸着剤として使用するもので、安価な上に一定量の砒素を吸着すると色が変わる事から、飲料水の安全性を確認する簡易的な試験を行う事もできます。

 日本における飲料水中の砒素の基準値は0.01ppm以下となっていますが、試験ではその200倍にあたる2ppmの砒素濃度の水道水を用い、半日で約90%を除去、2段階の浄化でほぼ完全に除去する事ができています。

 水不足に苦しむ途上国に外国からの援助で井戸が掘られ、念願の水が出たのに地質中の砒素が含まれていて利用できない、出た水を細かな検査を行わないまま利用していて健康被害が発生する。今回の新技術の開発は、そうした悲劇を回避してくれるものとなります。水は生命に欠かせない物であり、その安全性を高める技術の登場を歓迎したいと思っています。


 

第1863回 パスタの代表



 私にとって最初のパスタとなったのは、「マカロニ」ではないかと思います。当時、売られていたインスタントのマカロニグラタンが、人生における初めてのパスタ料理であり、後にパスタ好きとなる私の原点となったのではと考えています。

 父親は柔らかい麺を好む人でしたので、パスタの理想的な茹で上がりである「アルデンテ」は考えられない物となっていました。母親もパスタ料理には不慣れなので、食卓に上るのは土曜日に半日で帰宅する私への昼の手抜き料理であるインスタントの「ナポリタン」か「マカロニグラタン」程度なので、自分で作るようになるまでは本格的なパスタ料理は無縁の物となっていた事が思い出されます。

 マカロニというと穴が開いた短いチューブのような形状で、日本で独自に発展した麺類には例がない形状となっています。マカロニに限らずパスタには、蝶のような「ファルファッレ」や貝殻のような「コンキリエ」、螺旋状の「フジッリ」、車輪のような「ルオーテ」など非常に多くの形状が存在し、独自の食文化となっています。

 パスタの歴史は非常に古く、紀元前8000年頃のユーフラテスの遺跡、「テル・ムレイビト」から大量の石臼や石皿、野生種の小麦などが発見されており、極めて早い時代から小麦は炊いたり、焼いたりというよりも粉に挽いて食べられていた事が判ります。

 世界最古の料理書であるアピキウスの料理書には、「アピキウス風のトルタ」という料理が登場し、「とても細かく切った肉と泡立てた卵に魚醤やワイン、コショウを加えて鍋で煮込み、ラガノンと交互に重ねて調理する」と記載されています。ラガノンとは古代ギリシャで食べられていた小麦粉を水で練って薄く延ばした物で、パスタの一種、ラザニアの原形と見る事ができます。

 その後、小麦粉を水で練って丸めた物を鍋のスープで煮る原始的な「ニョッキ」や、アピキウス風のトルテから派生した詰め物をした「トルテリーニ」のような物が作られるようになり、小麦粉を水で練った物を「マッケローニ」と総称するようになります。

 マッケローニには乾燥させて保存性を高めるという工夫が行われるようになり、製造方法も生地を穴から搾り出す圧搾機や箱にギターの弦のように針金を張り、生地を押し付けて細かく切り分ける「キタッラ」と呼ばれる器具も使われるようになって、丸めたり平たく延ばしただけではない形状の物が食べられるようになった事が判ります。

 そんな中、14世紀の後半から15世紀の初めにかけて画期的な形状のマッケローニが登場します。細い棒に生地を巻き付けて成形した後、中の棒を引き抜いて筒状に仕上げるマッケローニがナポリで考案され、大人気となります。

 海と山に面したナポリはマッケローニ作りに適した土地で、小麦粉を捏ねる際に必要となる湿度は海からの適度な湿り気を持った風が供給し、出来上がったマッケローニを乾燥させる際の乾いた風は山からの吹き降ろしが担当するという最適な環境を作り出していました。

 マッケローニの名産地であるナポリにおいて筒状のマッケローニが考案された最大の理由は、ムラなく速やかに乾燥できるというものだったのですが、茹で時間が短い、ソースが絡みやすい、独自の食感があるといったメリットがあり、マッケローニの代名詞のような存在となっていきます。

 1492年にはコロンブスによって新大陸が発見され、持ち帰られたジャガイモやトマト、唐辛子などは後のパスタに大きな影響を与えるのですが、パスタにとって最大の転機となったのは19世紀の「ダイス」と呼ばれる口金の登場で、口金の変化によるさまざまな形状の登場が今日のパスタという多彩な食文化に繋がったといえます。

 マッケローニはマカロニの語源となり、筒状のパスタを指す言葉となっていきます。イギリスやアメリカでは、日本のマカロニグラタンに似た「マカロニ&チーズ」が代表的な惣菜となり、日本でもマカロニは最も親しみ深いパスタとなっています。

 以前、「マカロニの穴はスパゲティを抜いた跡」という話を聞かされた事があり、何とも面白い発想だと思った事があります。昔のように細い棒に生地を巻き付けるのではなく、漏斗のように先へいくほど細くなる筒状のダイスを使い、押し出された直後は3つか4つに分かれているのですが、すぐにくっついて筒状になるので適当な長さで切り分け、乾燥させてマカロニは作られています。

 かつて今日のパスタのように小麦粉を水で練った食べ物の総称であったマッケローニ。そのマッケローニのバリエーションの一つとして登場し、代表的なマッケローニとしてその名を独占したマカロニ。そう考えると最初のパスタがマカロニであった事が変に納得させられてしまいます。


 

第1862回 炊爨?炊飯?



 子供の頃、何故か友人宅に「飯盒(はんごう)」があり、好奇心に駆られて庭で焚き火をしてご飯を炊いてみた事があります。友人は経験があるようなのですが、私は炊飯器ですらご飯を炊いた事がなく、友人に任せていると10分ほどでご飯が炊き上がり、初めて炊飯器以外で炊いたご飯をその場で食べた事が思い出されます。

 今では土鍋などでもご飯を炊く事があるので、細かな火加減の事なども理解できているのですが、当時はそれも判っておらず、ただ見よう見真似で薪をくべていた事から火加減が強過ぎたらしく、底の部分が焦げてしまっていて、「おこげ」を食べる初めての経験ともなりました。

 飯盒というと濃い緑色か黒い色で、片方が凹んだU字型をした「兵式飯盒」が思い浮かびます。兵式飯盒は文字通り軍隊で使用されていた飯盒で、片方が凹んだU字型は私の中では「そら豆」型となっているのですが、一般的には「キドニータイプ」と呼ばれる事から「腎臓」型というのが通例となっているようで、独特の形状には複数の意味があります。

 断面が楕円や円形ではない事から、すぐに思い浮かぶのは携行する際、体にフィットして持ちやすく、かさ張らないというもので、同じく複数の飯盒を持ち運ぶ際、凸凹がうまく作用して安定するともいわれます。

 また、飯盒を使って調理をする際、焚き火の炎は均一ではない事から、不均一な加熱条件でも対流によって全体に熱が回りやすいように工夫された形状とされ、全体の幅が狭い事から竈を小さくして薪を節約する事にも役立っています。

 日本独自の工夫も見られ、中蓋のすり切り一杯が一食とされた2合の米の容量となっており、外蓋一杯が2合の米を炊く事に適合した水の量となっています。飯盒自体の内側にも2合と4合の米を炊くための水の量を示す刻みが入れられています。

 ご飯を炊く物というイメージが強い飯盒ですが、起源はヨーロッパにあるとされ、19世紀の末には現在とほぼ同じ物がドイツで使われていて、日本へは明治維新以後、軍隊の西洋化が進む中で導入されています。

 大政を奉還し、将軍職を辞した後、徳川慶喜が自宅で飯盒を使ってご飯を炊く事を楽しんだという記録が残されている事から、開国後の早い時期から飯盒の存在は知られていた事が想像できますが、当時の兵糧は戦国時代からの伝統的な糒(ほしいい)と焼き味噌が採用されていて、飯盒が正式に採用されるのは日清戦争の頃とされています。

 日本陸軍で採用された最初の飯盒は、漆塗りやホーロー製の物であったとされ、調理機能がない食器の一環でしかない物であったとされます。日本の飯盒が調理機能を持つようになるのは明治23年(1890年)の事で、陸軍火砲製造所において製造された物が最初となり、その後、西洋式のデザインの導入や米を炊くための工夫が施されて今日に至っています。

 最初の飯盒に調理機能がなかった事については、飯盒が使用される場面の特異性に理由を求める事ができます。近代の野戦では、大隊単位で後方部隊が炊事を行い、調理された食事が部隊毎に配給されます。飯盒はそうした食事を受け取るための物で、兵士が個別に炊事を行う物ではありませんでした。戦場で炊事を行う事は煙によって部隊の存在や配置を知られてしまう事や、竈の数や規模で部隊の勢力を敵に知られてしまう事にも繋がります。

 そのため戦場での炊事はできれば避けるべき事といえるのですが、混乱した戦場では常に補給を受けられるとは限らず、補給を受けられない場合は食料を確保するために簡便な調理機能が必要となる事が考えられ、後に調理機能が加わったという事がいえます。

 飯盒でご飯を炊く事を「飯盒炊爨(はんごうすいさん)」といいます。軍隊では複数の兵士がそれぞれの飯盒を持ち寄り、複数の飯盒でご飯とおかずを用意する「組炊爨」と個別の兵士が自らの飯盒を使い、中蓋におかずとなる物を入れて炊く「各個炊爨」があり、各個炊爨では美味しく調理する事が難しい事から、やむを得ない場合を除いて各個炊爨は行わず、組炊爨を行う事が推奨されています。

 あまり馴染みのない炊爨という言葉ですが、ご飯を炊くという専門用語で、飯盒による炊爨は慣れるとそれほど難しいものではありません。しかし、炊飯器ほどには簡単ではなく、その違いが炊爨と炊飯という言葉の違いに表れているように思え、子供の頃の炊爨経験を思い出してます。


 
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にんにく卵黄本舗の健康コラムです。
食と健康をキーワードに最新の医療情報から科学技術、食文化や献立まで毎日更新で幅広くお届けします。是非ご覧ください。

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