第1879回 アメリカ生れ



 野菜好き、特に生野菜好きという事もあり、ドレッシングはいろんな物を使います。昨年の夏はいろいろな野菜を甘酢漬けにして楽しんだ事から、野菜の風味が染み込んだ甘酢がたくさん残され、それを使ってオリジナルのドレッシングを作ったりもしています。

 ドレッシングとは、本来「サラダドレッシング」と呼ばれる物で、酢や塩、油などを元に香辛料、ハーブ、酒などをはじめとする旨味調味料を加えて作られる液状の調味料の総称で、最近増えてきた油分を含まないノンオイルドレッシングは規格上、ドレッシングタイプ調味料となって厳密にはドレッシングとは別物となっています。

 私にとって最初のドレッシングとなったのは、日本でも馴染みの深いフレンチドレッシングの赤であったと思います。フレンチドレッシングにはプレーンな白とトマト風味の赤がありますが、赤が最初で白はそれから数年遅れて食卓に登場しました。

 フレンチドレッシングはフレンチと名付けられてはいますが、考案されたのはアメリカで、一説には中西部の街、インディアナ州ヘイズルトンを開いたルーシャス・フレンチは大変な野菜嫌いで、普段からほとんど野菜を口にする事がなく、極端な野菜不足によるビタミンの欠乏症から何度も壊血病を起こしかけてしまい、困り果てた彼の妻が少しでも野菜を食べてくれるようにと考案したのが始まりとされます。

 フレンチドレッシングと雰囲気がよく似た物に「サウザンド・アイランド」があります。日本では略して「サウザン」と呼ばれる事も多いサウザンド・アイランドはマヨネーズとケチャップを合わせた物に、細かく刻んだタマネギやピーマンなどの野菜、ピクルス、香辛料などを加えて作られます。

 刻まれた野菜や香辛料がドレッシングに浮いている姿を、アメリカとカナダの国境沿いにある「千の島々(サウザンド・アイランズ)」に見立てて名付けられたともいわれ、また、別説にはニューヨークのホテル経営者、ジョージ・ボルトがレシピを教わった場所がサウザンド・アイランズの別荘であった。レシピ考案者のソフィー・ラロンドの出身地がサウザンド・アイランズであったなど、不思議な名前の由来には諸説があります。

 アメリカ生まれでありながら、フレンチドレッシングのように他国の名が付いている基本的なドレッシングの一つに「イタリアンドレッシング」があります。酢やレモン汁に水分などを加えて酸味を調節し、油、塩、コショウ、砂糖、刻んだ香味野菜、ハーブなどを加えて作られるイタリアンドレッシングもイタリアの名を持ちながらアメリカで考案されたドレッシングとなっています。

 最近ではロバート・H・コブの考案による「コブサラダ」やシーザー・カルディーニ考案の「シーザーサラダ」など、多くのサラダに関する食文化はアメリカから発信され、世界中で食べられるようになっています。特にドレッシングはアメリカ発祥の物が多く、その背景にはヨーロッパではサラダは野菜を切り分けた後、ボウルに入れて最終的な味付けまで終えてからテーブルに出され、味付けのされていない野菜を各々が皿に取り分け、味付けをするという伝統がなかった事が考えられます。

 バリエーションの多彩さや味、品質など日本は世界的に見てもドレッシングの先進国だと思います。車をはじめゲームソフトやパソコンなど、アメリカで生まれて日本へ伝えられ、日本が先進的立場になった物は多く存在します。物事を突き詰めて考え、応用力に優れた日本人の気質の表れかと、売り場に多く並ぶドレッシングを眺めてしまいます。


 
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第1878回 塩サラダ



 ジャガイモが大好きで、ジャガイモの料理やジャガイモから作られた物は、何でも大好きとなっていて、ポテトチップもかなり好きな食べ物となっています。今ではいろんなシーズニングによる味のバリエーションがあり、定番の物から季節限定の物、地域限定の物などたくさんの味付けがされた製品があるのですが、一番好きなのは香ばしく揚げられたジャガイモの風味を楽しむ事ができる「うすしお」味となっています。

 うすしおは文字通り少量の塩だけで味付けがされた物で、注意して見ると表面に小さな塩の結晶を見付ける事ができます。表面のみに塩をふる事で、しっかりと塩味を感じさせながら使用されている塩分量は少ないとされ、何よりうすしおというネーミングが塩分量の少なさを感じさせてくれて、減塩されたヘルシーなイメージがあり、塩分が嫌われる今日の事情に合っている見事なネーミングだと思えてきます。

 同じように塩が味付けの中心となりながら、「塩味」とは表記しない物に煎餅の「サラダ」味があります。煎餅というとしょうゆを塗って香ばしく焼き上げられた物を想像しますが、サラダ味といわれるとすぐに塩味の煎餅が思い浮かぶほどサラダ味というものが定着しています。しかし、よく考えてみるとサラダ味の煎餅から野菜関連やドレッシングなどの味がする事はなく、サラダからは程遠い物のようにも思えてきます。

 サラダの語源はラテン語で塩を意味する「サル」に由来していて、英語では「サラド」、フランス語では「サラード」、ドイツ語では「ザラート」、イタリア語では「インサラータ」とどれもがラテン語の塩に関係しています。

 古い時代、野菜を長期保存するために塩漬けにした事や、今日のようにドレッシングを用いずに塩で味付けしていた事がサラダの語源となった事が考えられ、塩で味付けされた煎餅もそうしたヨーロッパの古い伝統に則ってサラダと名付けられたのかというと、実はそうでもなく、同じサラダ関連でも煎餅のサラダ味はサラダ油にその名の由来があります。

 サラダ油とは日本独自の製品で、高度に精製する事によって味やにおいにくせがなく、低温下に置いても結晶化しにくいように加工されているという特徴があり、サラダに生でかけて食べる事を想定した加工油となっています。

 サラダ油はJAS(日本農林規格)によって規格が定められていて、定められた原材料である菜種、綿実、大豆、ごま、紅花、ひまわり、とうもろこし、米、ピーナツでしか作る事ができず、最近、高級食用油として注目されるオリーブや椿などではサラダ油を作る事はできません。

 そんなサラダ油が煎餅と出会うきっかけとなったのは1960年代の初頭、高度成長期の日本ではライフスタイルの欧米化が進み、和風の古いイメージが強くなりつつあった煎餅を洋風の新しくハイカラな製品としてリニューアルするための試みが行われ、当時、洋風の新しい食材であり、高価であったサラダ油を使う事で煎餅の洋風化が図られた事によります。

 従来通りに焼き上げられた煎餅の生地の表面にサラダ油を吹き付け、その上から塩をふりかけて味付けを行うという新しい手法は、表面の油のお陰で味が定着しやすく、油を使用しない物と比べて湿気にも強くなっていました。サラダ油を使った事で味やにおいにくせがなく、油由来のこくも加わってサラダ味は人気となり、広く定着する事となります。

 普段、サラダ味の煎餅を食べている分にはほとんど意識する事のないサラダ油の存在ですが、意外なところで名前の由来となっている事や煎餅の美味しさに大きく貢献している事など、改めてその存在の大きさを感じてしまいます。


 

第1877回 冬の色



 柿の実の赤い色を見ると、如何にも日本の秋という感じがします。そんな柿の皮を剥いて干した「干し柿」が食べ頃になった姿を見ると、如何にも日本の冬という感じがしてきます。

 柿は日本が原産地とされていて、16世紀にポルトガル人によってヨーロッパへ持ち帰られ、その後、アメリカへと広まって今では世界中で見る事ができます。学名も「ディオスピロス・カキ」となっていて、日本語の柿がそのまま使われています。

 ヨーロッパへ伝えられたのは16世紀となっていますが、隣国の中国へはかなり早くから伝わっていて、約3000年ほど前には柿があったとされ、紀元前2世紀頃の王家の墓から多数の柿の種が出土しています。

 その当時から食べられる時期が限られている貴重な甘味である柿を、少しでも長く味わう事ができるように干し柿にして保存性を高めるという工夫が行われていました。

 柿の実は熟してくると含まれている渋味の元、タンニンが水溶性から不溶性に変わり、渋味を感じなくなります。タンニンが水溶性のまま残されている物が渋柿で、今日では干し柿は渋柿で作られています。

 子供の頃、果物の売り場にたくさんの渋柿が売られていて、理解に苦しんだ事があります。渋くて食べられない物を何故、たくさん販売しているのかと母親に聞いてみると、干し柿を作るためだと教えられたのですが、わざわざ不味い渋柿を使わなくても美味しい甘柿を使えば、もっと美味しい干し柿ができるのではと考えてしまった事が思い出されます。

 干し柿を作る際、渋柿を使う理由は渋柿の方が甘柿よりも遥かに糖度が高いためで、甘柿を干し柿にしても渋柿で作った物ほどの美味しさは得る事ができません。

 そのままでは強い渋味のために食べる事ができない渋柿は、干して乾燥させているうちに水溶性のタンニンが不溶性となって渋味が感じられなくなり、本来の甘味を感じる事ができるようになって、砂糖の1.5倍もの甘さを持つようになります。

 干し柿作りには秋から冬という気温が低く、乾燥した季節が関わっていて、低温で速やかに乾燥させる事や乾燥によって相対的に糖度が上る事、陽射しによって殺菌される事などによって腐敗する事なく表面に保護層ができて長期の保存が可能となっています。

 乾燥によって糖度が高められると糖分の結晶化が起こり、干し柿の表面には白い粉が生じてきます。白い粉の正体は糖アルコールの一種であるマンニトールやブドウ糖、果糖、ショ糖などで、中国では干し柿の表面の白い粉を「柿霜(しそう)」と呼んで生薬として用いる事もあります。

 柿はビタミンやミネラル類も多く、甘味が貴重だった時代、手軽に手に入れられる数少ない甘い物であったといえます。季節が限られてしまう果物を干す事で保存性を高めるだけでなく、水溶性のタンニンを不溶性に変えて渋味を抑え、その奥に隠れていた甘味を引き出すという知恵には驚かされるものがあります。


 

第1876回 行列の真実



 大好きな時代劇を観ていると不安定な身分というか、いい加減な職業の一つとして「渡り中間(わたりちゅうげん)」という言葉が出てきます。中間とは脇差一本を帯刀して時には戦にも参加し、平時は雑用を行っている武家の奉公人の事で、渡り中間とは決まった主を持たず、短期間だけ雇われていろんな屋敷を渡り歩く労働者の事を指します。

 そんな渡り中間が重宝する場面として、大名の参勤交代の行列、「大名行列」があります。江戸幕府は諸藩の大名に対し、定期的に江戸に出仕する事を義務化する事によって財政的な負担を生じさせ、同時に人質を取る事で反旗を翻す事を困難にさせて安定的な基盤を築いていました。

 そのため諸藩の大名には、藩の規模に応じて大名行列に随行する家臣の数や様式が細かく定められていました。しかし、いつの世も経費削減は重要な事で、諸大名は参勤交代の費用を最低限に抑えるために少ない人数で出発し、江戸に入る直前に渡り中間を雇い、必要な人数を確保して体裁を整えていました。

 大名行列というと、「下ーにー、下に!」という号令の下、居合わせた人々をひれ伏させて行われる仰々しい行列が思い浮かびますが、実際は「下ーにー、下に!」の号令を発して庶民を平伏させる事が許されているのは徳川の御三家だけで、御三家のうち水戸徳川家は江戸に常駐していた事から、紀州徳川家と尾張徳川家のみが行っていた事で、他の大名の行列は「避けろー、避けろー」という掛け声を用い、その場にいた庶民は行列を妨げないように脇に寄るだけで良く、大名の行列も日程を短くして旅費が節約できるように駆け足で過ぎていったとされます。

 そんな大名行列よりもはるかに物々しく行われていたのが「御茶壺道中」で、銘茶の産地、京都の宇治から幕府へ謙譲される御用茶を運ぶ「宇治採茶使」という役職による行列となっていました。

 御茶壺道中は百個以上の茶壺に数百人、時には数千人もの役人が付き添い、地位的には大名の行列よりも上とされていて、居合わせた庶民には平伏する事が義務付けられていました。宇治採茶使自身も大名以上という意識から態度が大きかったとされていて、御茶壺道中を無難にやり過ごそうという事は、現代にも受け継がれている童謡、「ずいずいずっころばし」に見る事ができます。

 「ずいずいずっころばし」の歌詞は、「ずいずいずっころばし、ごま味噌ずい。茶壺に追われてとっぴんしゃん。抜けたらどんどこしょ。俵のネズミが米食ってチュウ。チュウ、チュウ、チュウ。お父さんが呼んでも、お母さんが呼んでも行きっこなしよ。井戸のまわりでお茶碗欠いたの誰」というもので、一見、意味不明ですが、御茶壺道中の事を理解していると意味が解ってきます。

 最も意味不明な「茶壺に追われる」という部分に、御茶壺道中の事が表現されていて、「御茶壺道中が来たら追われるように急いで家の中に入って戸をしっかりと閉めていなさい。行列が抜けて行ったら好きにすれば良いから。大切な米をネズミが食べていてもお父さんが呼んでいても、お母さんが呼んでいても行ってはいけませんよ。それなのにこっそり抜け出して井戸の周りで遊んで、洗いかけの茶碗を欠いてしまったのは誰?」と解釈する事ができます。

 今では意味が解りにくいリズミカルなだけの童謡となっていますが、当時の事を思い描くと実に興味深い内容に思えてきます。家に引きこもり、人影が消えた宿場町を淡々と進む茶壺の行列や、人を脇に寄せて足早に駆け抜けて行く少人数の大名行列、時代劇だけでは知り得ない歴史の真実というところでしょうか。


 

第1875回 文明的病



 世界最大の感染症というと「虫歯」ではないかと思います。虫歯はミュータンス菌(ストレプトコッカス・ミュータンス)によって引き起こされますが、生後間もなくほとんどの人がミュータンス菌に感染してしまい、その後のさまざまな要因によって虫歯が発生してしまいます。

 人類が虫歯に悩まされるようになったのは、人類の長い歴史からするとごく最近の事とされ、約五百万年前に人類の歴史が始まり、狩猟生活を続けていた間は虫歯は見られなかったとされます。最古の虫歯の跡は、約二十万年前のネアンデルタール人の骨から発見されていますが、極めて稀な例で、虫歯が見られるようになるのは約一万年前の農耕生活が始まった頃と一致するとされ、デンプンが豊富な穀類を貯蔵して食べるようになった事が虫歯の増加に繋がったと考える事ができます。

 虫歯に関する最も古い記録は紀元前1500年頃の中国、殷の時代の事で、甲骨文字で「王の歯の痛みは虫によるものだろうか」といった意味の事が書き残されています。

 古代ギリシャのヒポクラテスは悪い液体が葉の中に溜まり、虫歯を引き起こすと考え、アリストテレスはイチジクを食べると果肉が歯に付着して残り、それが腐敗して虫歯を起こすと考えていたといわれます。

 近代的な虫歯に関する考え方については、1835年にロバートソンが食べ物の残りかすが発酵して酸を生じ、その酸が歯を溶かして虫歯が起きるというアリストテレスの考えに似た説を提唱し、1889年にミラーによって虫歯は細菌によって引き起こされるという説が出されて以降、急速に研究が進んでいます。

 虫歯が多くの人を悩ませるようになるのは、そうした虫歯の原因と治療の本格的な研究が進められるようになる以前、16世紀頃からとされ、16世紀以降、虫歯は世界的な疾患として急速に世界中に広がっていきました。

 16世紀に一気に虫歯が増えていった背景には、工業技術の向上による砂糖の大量生産が可能となり、世界的に流通するようになった事が大きく影響したと考える事ができます。

 ミュータンス菌は砂糖を使って「菌体外多糖類」という水に溶けにくい粘着性のある物質を作り出し、歯の表面に塊となって付着します。その塊が「プラーク」と呼ばれる歯垢で、ミュータンス菌以外のさまざまな細菌も含んでいます。

 砂糖を摂取するとプラークの中に棲む細菌が砂糖を分解し、酸を作り出してプラーク内のpHを低下させてしまいます。プラーク内の酸性度が強くなると、歯の表面を覆う堅いエナメル質から主成分であるリン酸カルシウムが溶け出し、「脱灰」と呼ばれる歯が酸で溶かされる現象が起こります。

 砂糖に限らずご飯やパン、麺などに多く含まれるデンプンを摂取すると唾液の中の酵素、アミラーゼによって分解されてブドウ糖や果糖などの酸を作り出す糖に変わり、食事をするたびに脱灰が起こってしまいます。

 脱灰が起こった後、酸は唾液中の成分によって中和され、酸性度が低下します。酸性度が低下すると、溶け出していたリン酸カルシウムは歯の表面に再び沈着して歯が修復される「再石灰化」が進み、歯の健康は守られているのですが、脱灰と再石灰化の均衡が崩れてしまうと虫歯へと繋がってしまいます。

 砂糖が手に入りやすくなり、摂取量が増えた事で唾液の酸性化が進み、中和して再石灰化が始まるまでの時間も長くなってしまい、脱灰と再石灰化のバランスが崩れてしまいます。また、間食や糖分、酸などを含む飲料の摂取によって脱灰が一日に何度も起こり、再石灰化が行われないという虫歯を助長する環境が出来上がったという事ができます。

 そうして見ると虫歯は文明病、贅沢病という事ができ、生活習慣病という事もできます。これまで幾度かミュータンス菌を殺菌できる抗生物質の登場が報告されていますが、完璧に殺菌を行う事が不可能な事から、わずかに残されたミュータンス菌はすぐに増殖を行い、元の状態に戻ってしまうために、虫歯の予防薬は充分に機能しないものとなっています。

 糖分や酸、デンプンなどを日常的に摂取する以上、虫歯のリスクが常に付きまとう事を理解し、脱灰と再石灰化を意識しておく事が歯を守る第一歩となるのかもしれません。


 

第1874回 お風呂の不思議



 寒さが本格化してくると、お風呂の時間が待ち遠しく思えてきます。暖房のお陰でそれほど寒さを感じていなくても、暖かな湯船に浸かると体が冷えてしまっていた事を意識してしまったりもします。

 冷えは万病の元ともいわれるので、お湯によって体を温め、知らないうちに浸透していた冷えをリセットする事は、日常を通して実践する事ができる健康法の一つという事ができます。

 日常生活の一部となっているお風呂ですが、お風呂に関する事には意外と疑問に思える事があります。その一つが「湯船」で、お湯を溜める、お湯を沸かすための容器が何故「船」と呼ばれるのか不思議に思えてきます。

 日本には火山が多く存在する事から、自然に湧き出る温泉が随所で見られ、湯溜まりや蒸気が充満する岩窟での入浴が古くから行われていたとされます。そんな日本に正式に入浴という習慣が伝えられたのは6世紀の事で、仏教の伝来と共に伝えられています。

 仏教ではお湯に入る事で「七病を除き、七福が得られる」と説いていて、入浴の健康効果を理解し、広く推奨していました。寺院では体を洗い清める事も大切な業としていて、そのための施設として浴堂が備えられ、一般の庶民にも入浴が施された事から入浴という習慣が定着したとされます。

 そうした入浴は「湯」として江戸時代までは「お風呂」とは別物とされていました。当時のお風呂は釜でお湯を沸かし、その蒸気を浴室内に送り込み、熱い蒸気によって垢を浮き上がらせて落とし、用意されていたぬるま湯で洗い流すものとなっていました。

 江戸時代に入ると湯を提供する銭湯が一般化し、お風呂と湯が一体化していくのですが、川や堀といった水路が発達した江戸の街では小規模な銭湯の一環として、お湯を入れた大きな桶を積んだ船が水路を巡り、湯を提供するという商売が見られるようになり、その名残が「湯船」という言葉に残されています。

 また、お風呂とは関係のない、物を包むための布を「風呂敷」と呼んでいます。物を包んで持ち運ぶ布の利用は奈良時代にまで遡る事ができ、平安時代には「平包(ひらつつみ)」として広く用いられるようになっています。

 その頃、入浴は心身を清める厳粛な行事であり、男女が入り乱れて行われた事から、入浴は裸ではなく白衣を着て行う事が作法とされていて、入浴後、濡れた白衣を平包の上で着替え、そのまま白衣を包んで持ち帰った事から平包が「風呂敷」と呼ばれるようになったとされています。

 室町時代には、お風呂というと蒸気を使った蒸し風呂が一般的であり、浴室内がかなりの高温となる事から広い布を敷いて、その上に座った事も広い布を風呂敷と呼ぶ元になったとされ、当時の将軍、足利義満が大湯殿を建設し、各地の大名を招いて湯を振舞った際、衣服が間違えられないように家紋を入れた平包を用意し、それに衣服を包んで保管し、入浴後にその包みの上で装束を調えた事も平包を風呂敷と呼ぶようになる元となったといわれます。

 入浴時に使用する物ではなくても、入浴に用いるような名前を持つ「浴衣」は、平安時代に使われた入浴時に着用する白衣、「湯帷子(ゆかたびら)」が元になっていて、後に湯上りに着て肌の水分を吸い取らせるバスローブのような役割を経て、今日のような衣類の一種となっています。

 そうしたさまざまな部分に日本人とお風呂との関わりの深さを見る事ができ、日常生活に欠かす事のできないものとなっている事を伺う事ができます。


 

第1873回 マトンの驚き


 子供の頃、父親が好んでいたという事もあり、成羊の肉である「マトン」を使った焼肉が普通に食卓に上っていました。大学に入ると通学路に羊肉の専門店があり、ここが以前、父親に聞かされたひいきの店なのかと眺めた事があります。

 後にマトンは独自の臭味があり、人によっては抵抗を感じる事があるという事を知ったのですが、子供の頃から接している身としては、特有の風味は臭味ではなく個性の一環であり、抵抗を感じる人がいるという事自体が驚きとなりました。

 そんなマトンを使う代表的な料理として、「ジンギスカン」があります。長い事、ジンギスカンは蒙古の王、ジンギスカンによる版図を拡大するための戦の最中、鉄兜を使って羊の肉を焼いて食べた事が始まりのモンゴル料理と信じ込まされていて、モンゴルとは縁も所縁もない日本発祥の料理であるという事には、マトンに関する最大の驚きを覚える事となりました。

 ジンギスカンは中央が大きく盛り上がった、如何にも鉄兜のような「ジンギスカン鍋」を使って羊肉と野菜を焼き、羊肉から出る肉汁を使って野菜にこくと旨味を加えて仕上げる料理で、専用のジンギスカン鍋には肉汁を流すための溝がたくさん設けられています。

 ジンギスカン誕生のきっかけは、モンゴルとは全く関係のない事情、軍人や警察官、鉄道職員などが用いていた西洋風の制服を作るための羊毛不足にあり、輸入していた羊毛を自給できるように大正7年(1918年)に立案された「緬羊百万頭計画」に端を発するとされます。

 計画の早期実現のために羊毛ばかりでなく羊の肉を消費させる事ができれば、飼育農家は二重の収入を得る事ができ、農家の収入増加、飼育農家の増加、飼育頭数の増加と理想的な流れに繋げていける事から、それまで日本人には馴染みがなかった羊肉を消費する方法が検討されるようになりました。

 当時の日本人には食べるという発想自体が希薄だった羊肉の消費に苦慮した農商務省は、現在のお茶の水女子大学の前身にあたる東京女子高等師範学校に羊肉料理の研究を委託し、そのプロジェクトの中からジンギスカンは誕生したとも考えられています。

 また、別な説では日本軍の満州進出が深く関わっているともいわれ、満州の地で見かけた中国の羊肉を使った料理、「烤羊肉(コウヤンロウ)」を影響を強く受けたという見方もされています。

 ジンギスカンの名前の由来については、源平合戦において武功を成し、その後、実の兄である源頼朝によって追われた源義経が北海道を経由して日本を脱出し、モンゴルへ渡ってジンギスカンとなったという伝説が元になったとされ、満州国の建国に深く関わった駒井徳三が南満州鉄道在籍時に命名したとされています。

 駒井徳三による命名は、娘の満州野が記したエッセイの中で「父とジンギスカン鍋」として語られていて、駒井徳三によって満州在住時に名付けられたのであれば、「烤羊肉」の影響下で誕生したという事がより有力なように思えてきます。

 日本における最初のジンギスカン専門店は、昭和11年(1936年)に東京都杉並区に開かれた「成吉思荘(じんぎすそう)」とされていて、同じ頃、山形県の蔵王温泉や岩手県の遠野市にも発祥の異なる独自のジンギスカン専門店が誕生しています。

 羊肉を消費するという命題の下、幾つかの系統の羊肉料理が同時発生し、義経の伝説を元にジンギスカンの名前で呼ばれ、やがて一つの料理に集約されていった。ジンギスカンにはそんな流れが存在するように思えます。

 羊肉をメインとしながらもたっぷりの野菜と合わせてあり、栄養面がしっかりと考慮されている点では東京女子高等師範学校の料理研究の影響を感じる事ができ、満州で生まれた羊肉の焼肉が日本の羊肉料理に取り込まれたようで、どことなくモンゴルへと渡った義経が満州を経由して日本へと戻ってきた感じもします。

 現在、ジンギスカンは北海道の郷土料理ともされますが、北海道ではアルミ製の簡易的な使い捨てのジンギスカン鍋が存在し、コンビニでも普通に売られているとして現物を見せられ、驚かされた事があります。最近、ご当地物が何かと話題になりますが、「ジンギスカン味のキャラメル」の発売にも驚き、何かとマトン関連には驚かされ続けています。


 

第1872回 聖なる由来


 子供の頃、祖父の家の近くに「みたらし団子」の専門店があり、記憶が正しければみたらし団子以外のメニューはなかったようなのですが、結構、繁盛していて、買ってもらうと嬉しかった覚えがあります。

 その影響もあってみたらし団子は今でも大好きなのですが、大量生産された商品の中には、安直に甘辛いたれのとろみを増粘多糖類やゼラチンなどで付けてある物があり、並べられたトレーから一串取り上げると繋がったたれがちぎれ、縁の部分がゼリーのようにプルプルと揺れる様子には閉口してしまうものがあります。

 みたらし団子は、漢字で表記すると「御手洗団子」となり、今日の感覚からいうと少々疑問を持ってしまいます。中学生の頃、少し離れた友達の家へ遊びに行った際、近くの高校の柔道部の人達が稽古着姿でランニングをしていて、その中の一人の背中に書かれた「御手洗」の文字が名前とは思えず、掃除の区分が書かれているのかと考えてしまった事が思い出されます。

 御手洗という名前の由来は神社の入り口付近にある穢れを祓い、手や口を清める水場の事、もしくは下鴨神社などでよく知られた神社付近を流れる川で、参拝者が手や口を漱ぎ清める御手洗川が元になっていて、重要かつ神聖なものである事が判ります。

 下鴨神社の本殿東側には御手洗川が流れ、御手洗社があります。7月の土用の丑の日には、御手洗池に足を浸けると無病息災となると言い伝えられ、参拝者が膝まで水に浸かって無病息災を祈願する「御手洗祭り」が行われます。

 みたらし団子はその御手洗祭りとの関わりが深く、名前の由来は御手洗祭りにあるとされます。御手洗祭りの際、宮司がお供え物としていたのがみたらし団子の原形となったとする説や、祭りの際に集まる参拝者を目当てに境内で串団子を売る店が見られるようになり、その店で売られていたものが名物となり、御手洗団子と呼ばれるようになったともいわれます。

 また、異説には後醍醐天皇が御手洗池の水をすくったところ、泡が一つ浮き、少し間をおいて四つの泡が浮き上がってきたとされ、その古事に因んで作られたのが御手洗団子であり、古典的なみたらし団子の正式なスタイルは竹串の先に団子を一つ刺し、少し間を空けて四つの団子が連なっていたとされます。

 竹串の先端に一個、少し間を置いて四個が連なる団子の姿は人体を模しているともいわれ、神道特有の無病息災の祈願が込められていたと考える事もできます。

 団子というと「三色団子」や「団子三兄弟」などの影響もあって、絵に描くと三つの団子が串に刺さっている図が真っ先に出てきます。しかし、よく観察してみると四個の団子が一串となっているものがほとんどとなっています。

 かつて団子は切が良い五個が一串となり、一個一文で一串五文とされていたのですが、江戸時代に四文銭が造られるようになると、四文と一文で五文を払うよりもワンコインで済むように、一個減らして一串四文とした名残が今日に伝えられています。

 一串四文の団子は手早さを好む江戸っ子の気質に合ったらしく、関東から定着した事もあり、一串四個のみたらし団子は「関東風」と呼ばれる事もあります。古典的な一串五個、二番目の団子との間に隙間がある縁起物のみたらし団子を食べてみたいという気はしますが、いつも串の後半部分に食べにくさを感じる身としては、一串四個が限度かもしれないと思ってしまいます。


 

第1871回 強さと白さとフルート


 以前、システムエンジニアをしている知り合いの方から、「日本製のダンボールは弱く、外国製のダンボールは強い」という事を聞かされた事があります。何でもその方はストレスが溜まると、積み上げられている不用なダンボールを蹴飛ばしてストレスを発散するそうで、その際、同じ力で蹴飛ばしても外国製のダンボールには穴が開かない事に対し、日本製のダンボールは穴が開いてしまうとの事でした。

 確かに庭の井戸のポンプがむき出しだった頃、ダンボールの箱を被せていると、同じくらいのサイズや厚さでも日本製の家電製品の箱よりも外国製の箱の方が長い間、ボロボロにならずにポンプを覆ってくれていました。

 ダンボールは、本来はそれほど強度がないボール紙を波状に成形して、その両面に紙を貼る事によって強度を増した物で、中に入れる物の重量が大きくなりそうな場合の梱包や緩衝材、家具などにも使われています。

 ダンボールの誕生は、19世紀のイギリスにおいて当時、流行していたシルクハットの内側に施す汗を吸収する吸湿材として開発されています。その後、アメリカで割れやすいガラス製品を包装する包材として使用されるようになり、今日のようなダンボール箱が定着する事となります。

 ダンボールには「フルート」と呼ばれる単位が存在し、波型に加工した中芯の山の密度を示していて、ダンボールの強度を示す目安となっています。

 フルートにはA、BからGまでのフルートがあり、AからGに近付くほど波が細かくなり、強度が増す事となっています。唯一の例外として、CフルートだけはAとBの中間となっていて、BよりもGに近いCの方が強度的に劣る物となっています。

 フルートの密度によって強度を確保しているダンボールですが、それ以前にフルートや表面に貼り合せるライナーの原紙となるボール紙自体の強度もダンボールとしての強度に関係してきます。

 ダンボールに使われるボール紙の9割以上が、古紙を再生して作られています。再生する際に漂白したり印刷されている染料や顔料を除く「脱墨」を行うとボール紙の強度が下がってしまって、ダンボールの原紙としては不適格となってしまいます。

 そのため、極力漂白や脱墨を行わないようにしてダンボールの原紙とするのですが、全く行わないと原紙としての色合いが悪くなる事から、ある程度の処理は必要となります。

 その処理の度合いが日本製と外国製のダンボールの強度の差となっていて、色合いは綺麗だが強度は劣ってしまうダンボールは、日本人の潔癖さを好む気質を表す物のように思えてきます。知り合いはそんなダンボールの事情を理解してくれるだろうか、今でも蹴飛ばしに行っているのだろうかと思いつつ、幾層にも重ねられた猫の爪とぎを見ながら、これは何フルートだろうと考えてしまいます。


 

第1870回 パンと鉄


 地震のニュースを聞くたびに日頃から備えておかなければと、活火山の周辺に暮す者としては考えてしまいます。緊急時に必要になる物や食料をまとめておき、家が倒壊した場合を想定して物置にでも用意しておかなければと思っています。

 備蓄しておく食糧は保存性が高くて栄養のバランスが良く、手のかかる調理をせずに食べられる物となるのですが、何が良いかと考えていくと、その中の一つに非常食の定番、「乾パン」が思い浮かんできます。

 乾パンは小麦粉に砂糖、塩、ショートニング、イーストなどを加えた生地を発酵させて150度のオーブンで焼き上げた物で、水分が非常に少なく、パンというよりビスケットやクラッカーに似た食感となっていて、小麦の香ばしさとほんのりとした甘味がひろがるという味はパンに近いものとなっています。

 乾パンの歴史は非常に古く、いつ頃から作られているのか正確には判っていません。軍用の食料として考案されたともいわれ、古代ローマでは兵士に支給していたという記録が残されていて、その歴史の古さを伺う事ができます。

 乾パンによく似た物に「堅パン」があり、乾パンは堅パンの亜種であるとされています。堅パンもいつ頃から作られているのかは判っていないのですが、極めて早くから軍隊の携行食糧とされていて、堅パンを栄養や保存性などの長所を残したまま食べやすく改良したのが乾パンであると考える事ができます。

 乾パンと堅パンでは乾パンの方が軟らかく、食べやすくなっていて、南北戦争当時、堅パンを携行食料として採用したところ「アイアンプレート」と兵士たちに呼ばれた事からも、堅パンが堅くて食べにくい物であるかが判ります。

 乾パンと堅パンの違いは堅さだけでなく、非常用の食料として作られる乾パンにはベントナイトが添加されていて、水分が加わると体積が増加して満腹感を持続させて腹持ちを良くするという工夫がされています。

 ベントナイトは熊本城築城の際、加藤清正の指示によって篭城戦を想定した造りにするため、乾燥した芋の茎や珪藻土と混ぜて非常時の食料とする事ができる土壁とした事でも知られ、非常時に役立つ物であるといえます。

 堅パンから派生した食品は乾パンだけでなく、ガルバルディと呼ばれるレーズン入りのお菓子があります。二枚の堅パンの生地の間にレーズンを挟み込んで押し固めて焼き上げた物で、日本へも製法が伝えられ、独自の工夫が加えられて堅パンの生地にレーズンを練り込んだお菓子は今日でも販売されています。

 堅パンが栄養的に優れている事は大正時代の末期、八幡製鐵所で働く職員の体力の消耗が激しく、一般的な食事では栄養が不足する事から、カロリー補給食として堅パンが普及し、当初は製鐵関係の店で売られていたものが後に一般にも販売されるようになり、八幡製鐵所がある北九州市の名物になったというエピソードに見る事ができます。

 乾パンも堅パンも栄養的にも保存性にも優れていて、そのまま食べる事ができる優れた非常食といえるのですが、現代の軟らかい食品になれてしまった身としては、食べやすい乾パンの方にしたいと思ってしまいます。

 缶入りにして保存性をさらに高めた乾パンは、5年もの賞味期限を持つとされます。たまに食べると素朴な美味しさを感じてしまう乾パンですが、できればそのありがたさを実感する場面には遭遇する事がないよう願いたいと思っています。


 
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