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第1952回 安倍川餅マニアックス(2)



 鞠子の五郎右衛門が作る餅は大変な評判であったとされ、三代将軍家光の娘、千代姫の大好物であったらしく、尾張徳川家の二代藩主光友へ嫁いだ後、毎日のように江戸に運ばせたとされます。距離的な事を考えると速馬を飛ばしても餅は冷えて硬くなる事や、下手に保温しようとすると湯気で黄粉が湿ってしまい、風味が台無しになってしまう事を考えると、取り寄せる途中で冷えて硬くなった餅は焼いてお湯に潜らせる事で柔らかくし、黄粉をまぶして白砂糖をかけて食べていたように思えます。

 千代姫くらいの身分になれば白砂糖を日常的に口にする事も可能とは思えるのですが、路銀も限られた一介の旅人が渡し舟の到着を待つ間に茶屋で白砂糖をかけた餅を食べるという贅沢ができたとは考えにくく、当初の安倍川餅は餅に黄粉をまぶしただけの甘くない物だったようにも思えます。

 安倍川餅の作り方に関しては、つき立ての餅に黄粉をまぶし、白砂糖をかけるというもの意外に、つき立ての餅を黒蜜に浸してから黄粉をまぶすという作り方も伝えられています。

 安倍川餅をこよなく愛した著名人の一人に将軍吉宗がいます。吉宗は安倍川餅が大好物だったらしく、安倍川餅に詳しい駿河出身の家臣にしばしば安倍川餅を作らせていたとされます。将軍という立場上、貴重な白砂糖を日常的に口にする事はできても、質素倹約を推し進め、庶民の食にまで制限を設けていた吉宗が贅沢品の白砂糖を使った安倍川餅を頻繁に食べていたとは考えにくいものがあります。

 吉宗はサトウキビの苗を取り寄せ、江戸城内で試験栽培を行ったり、諸藩に苗を分け与えて栽培を奨励したりしています。サトウキビから得られる黒砂糖で作る黒蜜を使った安倍川餅であれば、サトウキビの栽培の推奨とその使い方の普及に役立つ物という事ができ、単に大好物というだけでなく政策を進める上での有効なアイテムであったという事もできます。

 黒砂糖であれば高度な精製を施した白砂糖よりも遥かに身近な物であり、黒砂糖を使った黒蜜によって甘さが付けられた安倍川餅であれば、旅人が舟を待つ間に軽く腹を満たす物となっていたと思えてきます。

 黒蜜を使う庶民的な安倍川餅に対し、贅沢にも白砂糖を使い、しかも蜜に浸して餅自体に味を付けてから黄粉をまぶすのではなく、黄粉をまぶしてから白砂糖をかけるという形態の違いは、それぞれ別系統に発展してきた物という可能性すら感じてしまいます。

 初期の安倍川餅は糖分が加えられておらず、黄粉の香ばしい風味とほんのりとした甘味で食べる物であったのが、金山の視察のために訪れた徳川家康という天下人に献上する事となり、趣向を凝らして贅沢な白砂糖をかけて供したところ絶賛された事で白砂糖を使う一つのスタイルが確立され、その後、速やかなエネルギー補給や疲労回復という意味もあって安倍川餅に身近な黒蜜によって甘味が加えられ、製糖技術の発達によって白砂糖が以前ほど希少な物でなくなった事を受けて、伝説となっていた家康スタイルの白砂糖をかけた安倍川餅が登場し、主流となったという流れがあったように思えます。

 現在では小豆餡に絡めた餅を一緒に盛り付けるのが正式なスタイルとも聞かされます。磯部餅と一緒に盛り付け、あらかじめ味付けしていた黄粉にまぶす我家の安倍川餅は、黄粉餅ではあっても安倍川餅ではないのかもしれないなどと考えながらいただいてしまっています。


 

第1951回 安倍川餅マニアックス(1)



 いつも正月の鏡餅にはプラスティック製の大きな物を購入し、飾り付けています。正月が終わって鏡開きの日が来るとプラスティック製の鏡餅の下の部分を開き、中から個包装された食べやすい大きさの餅がたくさん出てくるので、鏡餅を切り分ける手間が要らず、とても便利と思っています。

 そうして大きな鏡餅の型の中から出てきた小さな餅を食べる際、いつも偶数を調理するようにして半分をしょうゆを付けて焼き、海苔を巻いて「磯部焼き」にし、残り半分を黄粉をまぶした「安倍川餅」にしています。

 焼いた餅をお湯に潜らせる事で柔らかくし、黄粉をまぶした安倍川餅。我家では事前に砂糖と甘さを引き立てる一つまみの塩で味付けをした黄粉を使っているのですが、正式には味付けをしていない黄粉を使うという事を後に知りました。

 安倍川餅は静岡市の名物とされ、文字通り安倍川の川岸にある茶屋で出されていた物が名物になって広まったとされます。一説には徳川家康が御用金山の視察に訪れ、途中で茶屋に立ち寄った際、店主が黄粉を安倍川の上流にある笹山金山や日影沢金山などで採られていた砂金に見立ててつき立ての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上したところ、家康はとても気に入って大喜びし、安倍川餅と名付けたといわれます。

 実際には家康に献上される以前から安倍川餅は安倍川の茶屋で出されていて、江戸時代になって街道の往来が激しくなると、当時、大変な貴重品であった白砂糖を使った甘味という事もあり、東海道の名物となってその名が知られるようになっていったともされます。

 家康に安倍川餅を献上した店主は「亀屋」の五郎右衛門であったとされ、渡邊幸庵によって書かれた「渡邊幸庵対話記」に「東新田の米を使って旨い餅を作る鞠子の五郎右衛門」なる人物が登場しており、役人を辞した後、唐や天竺、オランダまでも渡り歩いたとされる渡邊幸庵が残した資料の信憑性の高さから五郎右衛門は実在の人物であり、この五郎右衛門こそが亀屋の店主と考える事ができます。その頃、鞠子はかなりの田舎であったとされますが、旨い餅を食べさせる事で知られ、参勤交代の大名達も通過する際にはよく立ち寄って餅を食べたともいわれています。

 米をついて作られる餅は美味しく、食べやすいというだけでなく、腹持ちが良く消化吸収にも優れています。そのため旅人達に最適なおやつや軽食と成り得る事から、用意してさえおけば確実に売れる商品となっており、多くの宿場町で名物となる餅が存在します。

 そんな餅と「畑の肉」と称されるほど栄養豊富な大豆を合わせる事は、栄養価に富んだバランスの良い手軽な補給食とする事といえます。煎った大豆を粗く砕いて皮を除き、細かい粉に挽いた黄粉は消化吸収に優れ、煮豆などよりも無駄なく栄養を吸収する事ができます。

 長旅を歩き続け、傷んだ筋繊維を補修するためのタンパク質やエネルギー生産に使われるデンプンに富む物である事から、旅の途中の軽食に最適な餅と黄粉の組み合わせですが、直接的なエネルギー源である糖分が加わると速やかなエネルギー補給ができ、さらに優れた補給食となる事が考えられます。しかし、当時の白砂糖の生産量や流通量、希少性を考えると旅人が気軽に食べる物に使われているとは考えにくく、当初の安倍川餅には使われていなかった事が考えられ、家康が食べた安倍川餅は煎った大豆の香ばしい風味とほんのりとした甘味で食べるそれほど甘くない物だったのではと思えてきます。


 

第1950回 上と駄(2)


 かつて高級なお菓子を指して「上菓子」という呼び名が使われていて、それに対する存在として高級ではない日常的なお菓子を「駄菓子」とする呼び名が生まれました。駄菓子と同じ意味で「雑菓子(ざつがし)」という呼び名も使われていますが、全国的には駄菓子が一般化しているものと思われます。

 上菓子と駄菓子、贈り物などに使われる高級な物で日常的に自分で食べるために購入するような物ではないお菓子と、自分や家族が気軽に食べる物として購入されるお菓子。雰囲気的には判っていてもその境目が何処にあるのか、今一つ判りにくいものがあります。

 駄菓子が成立した頃、駄菓子には明確な規定が存在していました。当時、非常に貴重だった白砂糖を用いる事は上菓子にのみ許された事で、駄菓子には黒砂糖や水飴によって甘味が与えられ、甘さも庶民が手に入れる事ができる最も甘い物である干し柿を超えない程度とされていました。

 砂糖が日本へ伝えられたのは奈良時代の事で、鑑真和尚によって伝えられたとされます。唐の太宗の時代、西方から中国に精糖技術が伝えられ、それまではシロップ状の液糖として使われていた物が粉状の砂糖にする事が可能となり、携帯性が上がった事が日本へ持ち込まれるきっかけとなったと考える事ができますが、それからしばらくは輸入のみでしかもたらされない非常に貴重な医薬品として扱われていました。

 その後、琉球においてサトウキビの栽培が行われるようになり、江戸時代に入ると将軍吉宗が琉球からサトウキビを取り寄せ、江戸城内で試験栽培を行い、さまざまな藩にサトウキビの栽培を奨励しましたが、精製度が高い白砂糖は貴重な存在であり、庶民が日常的に使用する事ができる物とはなっていなかった事が駄菓子作りにも影響しています。

 1747年にドイツのマルクグラーフによって甜菜から砂糖を作る技術が確立され、1806年から1813年まで続いたナポレオンによる大陸封鎖によってヨーロッパにおける最大の砂糖の供給国であったイギリスからの砂糖の供給が途絶えると、甜菜からの精糖が注目されるようになり、サトウキビに代わる精糖技術として発展を遂げています。

 そうした技術が日本へ伝えられると、サトウキビの栽培には向かない冷涼な気候でも砂糖の原料となる甜菜が育てられる事となり、徐々に白砂糖は貴重な物ではなくなっていき、駄菓子の製造にも白砂糖が使われるようになっていきます。白砂糖を使って作られる金平糖がかつては高価な上菓子とされていたものが、後に駄菓子の仲間入りしている事はそれを象徴しているという事もできます。

 金平糖に限らず生姜糖やはっか糖、金花糖なども砂糖の普及によって上菓子から駄菓子の仲間入りを果たし、逆に最中や羊羹、どら焼き、煎餅などは原材料の吟味や製法の洗練などによって駄菓子から上菓子へと変化していっています。

 また、駄菓子の中には地域性を活かして「郷土菓子」という独自の立場を確立する事で、駄菓子でありながら上菓子のような扱いを受ける物も出てきて、工業化された大量生産品の駄菓子が一般化するにつれその傾向は強まり、独自の発展を遂げているともいえます。

 駄菓子の「駄」とは荷物を負う馬という意味があり、「駄馬」という言葉にも使われるように、人が乗用に用いるに値しない劣った存在という事を示しています。そのままの意味では、わざわざ食べるに値しないお菓子となるのかもしれませんが、見ているだけでもどこか心躍る楽しさを感じてしまう事には、とても駄菓子と一言では片付けられないものを感じてしまいます。


 

第1949回 上と駄(1)



 日本の文化は謙譲の文化といわれる事があり、謙る事を美徳として捉える場面も多く見られます。相手の事を考え選定に神経を使って、それなりに良いと判断した物なのに「粗品」「粗茶」といった言葉にその一例を見る事ができ、「駄菓子」もその一環かと思っていると、駄菓子には対になる言葉「上菓子」というものが存在し、上菓子ではない物という意味から駄菓子の呼び名が与えられています。

 高級ではない下等な菓子とされる駄菓子のルーツは江戸時代、一つ一文という安価な値段で売られていた一文菓子にあるとされます。時代が明治と改まり、貨幣制度が変更されると最低単位は一文から一厘(りん)となりますが、一文菓子は一厘菓子として身近な存在であり続けます。その後、物価の高騰に伴って一厘菓子は五厘菓子となり、貨幣制度の変更で五厘菓子は一銭菓子へと呼び名を変えながら昭和の初期まで安価なお菓子としての伝統が続けられていました。

 江戸時代、団子1個が一文で、一本の串に3個の団子が刺された串団子が一本三文であった事を考えると、一文菓子が如何に安価で身近な物であったのかを伺う事ができ、江戸から明治、大正、昭和と時代を超えて愛されてきたかが判ります。一文から一銭へと貨幣と価値は変化しながら、町の片隅にある駄菓子屋では子供の小遣いでも買う事ができる素朴なお菓子が売られていました。

 しかし、昭和12年(1937年)に日中戦争がはじまり、それが太平洋戦争へと拡大する中、経済の混乱や物資の不足を受けて町の駄菓子屋は徐々に数を減らしていき、やがてほとんどその姿を見る事ができなくなってしまい、江戸時代から続く伝統は一旦途絶えてしまう事になります。

 一文菓子が生まれるきっかけとなったものとして、定期的に行われていた藩からの「糒(ほしいい)」の払い下げを考える事ができます。各藩は戦を念頭に常備食として保存性が高く、兵糧として伝統的に使われてきた糒を蓄えており、定期的にそれを新しい物と入れ替えていくために古い糒を払い下げていました。その糒を使って作られるようになったのが安価な一文菓子であり、継続して一文菓子が作られる事は藩に有事が起こらなかったという事でもあり、戦争の拡大によって町から駄菓子が消えた事は象徴的な出来事という事ができます。

 戦争が終了すると駄菓子の原料となる雑穀などの生産能力が残されていた地方を中心に、かつての郷愁から駄菓子の復刻が試みられていますが、非常に高価な物となっており、本来の意味での駄菓子とは程遠い物となっていました。

 駄菓子には子供の小遣いでも買えるという安価な価格と、育ち盛りの子供が次の食事までの繋ぎとできるような補食性が求められます。その意味から本格的な駄菓子の復活は、日本の高度成長と工業化によって成し遂げられたという事ができます。

 一文菓子からの伝統的な素朴さよりも工業化、大量生産化による多彩さが際立つ形となり、戦争によって途絶えてしまった一文菓子の伝統は継承されていないようにも思えるのですが、子供心をくすぐり続ける身近な存在というコンセプトはしっかりと受け継がれているという事ができます。町に駄菓子があるという事は、それだけ世の中が平和という事もいえ、とてもありがたい事のようにも思えてきます。


 

第1948回 冷たいお菓子(3)



 日本には都が置かれた京都や奈良の近郊に万年雪が手に入るような高山がなかった事もあり、権力者の命によって氷雪を切り出して運ばせたという話はあまり聞く事がありません。しかし、日本には四季があり、冬場には自然に氷が手に入る事から、その氷を保存して夏場に利用しようとする工夫は古くから見られています。

 冬場にできた天然の氷を溶けないように工夫して保管する場所、それは「氷室」と呼ばれ、洞窟や地面に掘った穴などを茅葺の小屋を建てて覆う事で外気を遮断して保冷し、氷が長期間にわたって溶けないようにして保管する場所としていました。

 氷室の中は地下水の気化熱によって外気よりも冷涼になる事や、山中などの涼しい場所に設ける事によって氷が溶けないような配慮がされ、貴重な氷を守るための適切な管理が行われていて、そうした様子は「日本書紀」にも「氷連」という姓を持つ朝廷のために氷室の管理を行う専任の職が存在していた事が記されています。

 製氷する技術がなく、天然の物を保管するしかなかった時代、夏場の氷は非常に貴重な物であり、氷室を所有して氷や冷たく冷された物を楽しむ事ができたのは、朝廷や将軍などの一部の権力者に限られ、氷室を所有していたり夏場に氷の献上を受けているという事はそれだけ大きな権力を持っていた事を示しているともいえます。

 奈良に氷室が作られ、夏場に氷が利用されるようになったのは4世紀の後半、仁徳天皇の頃とされ、非常に古い歴史を持っている事が判ります。その後、平安時代になると「枕草子」や「源氏物語」などに「削り氷(けずりひ)」という氷菓が登場し、細かく砕いた氷に「甘葛煎(あまずらせん)」と呼ばれた蜜をかけて食べられていた事や、清少納言によって「貴重なるもの」と賞された事が描かれています。

 非常に古い歴史を持つ氷室と天然の氷の利用ですが、一部の限られた人のためのものとしての歴史が長く、庶民の間でも夏場に氷や氷で冷した物が利用されるようになるのは江戸時代に入ってからの事となっています。

 戦乱の世が収まり、一大都市として発展を遂げた江戸市中では土蔵造りの氷室が建造されるようになり、一般庶民向けの夏場の氷の供給がはじめられています。江戸の町では玉川上水の水が飲み水として供給されていましたが、夏場はどうしても温くなってしまう事から氷で冷した水を売る「水屋」も誕生し、川の水に氷を入れただけという衛生面の問題から、抵抗力が下がった高齢者が飲用する事で腹痛を起こす事も見られ、「年寄りの冷や水」という言葉となって今日に残されています。

 江戸時代になって庶民の間でも氷を使う文化が広まった日本において、本格的なアイスクリームに関する記載が登場するのは幕末の事で、日米通商条約締結のために幕府が派遣した使節団の一人、柳川当清によってワシントン来訪の際の航海日誌の中に見る事ができます。「珍しきものあり、氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。味はいたって甘く、口中に入るるとたちまち溶けて、まことに美味なり。これをアイスクリンという」と書き残され、初めて見る冷たいお菓子とその美味しさに驚かされた事が伺えます。

 使節団はアメリカの船「ポーハタン号」でアメリカへと渡り、随伴船として咸臨丸もアメリカへ向かっています。咸臨丸には勝海舟や福沢諭吉も乗船していましたが、サンフランシスコで使節団と別れて帰国の途に着き、使節団はパナマ運河を経由してワシントンを目指し、上陸のための迎船となった「フィラデルフィア号」の中のもてなしでアイスクリームとの出会いを果たしています。

 そのため、勝海舟や福沢諭吉はアイスクリームを知らずに帰国しまった事となるのですが、密かに勝海舟を師と仰ぎ、赤坂氷川町に居を構えていた町田房蔵によって明治2年6月、日本で最初となるアイスクリーム「あいすくりん」の製造販売が開始されています。

 町田房蔵は2度の渡米歴を持ち、渡米中にアイスクリームの製法を学んだ可能性が考えられるのですが、一説には出島松造なる人物が製法を伝えたともいわれます。「あいすくりん」は牛乳と卵、砂糖を原料に作られていたとされる事から、ボルチモアのフッセルが普及させた生クリームを使うアイスクリームとは別物のように思え、出島松造説が有力なように感じられてくるのですが、そうなると出島松造はどこでアイスクリームの製法を学んだのかが気になってしまいます。

 日本では天然の氷を夏場まで保管する氷室という古い歴史を持ち、その氷室を専任で管理する職も存在していました。律令制の下では宮内省主水司に属する職となっていましたが、明治時代の訪れと共に消滅しています。それと入れ替わるようにアイスクリームが日本でも作られるようになった事には、どこか皮肉なものを感じてしまいます。


 

第1947回 冷たいお菓子(2)



 水分が凍り付くほどの低温を人為的に容易に作り出す事ができるようになったのは近代に入ってからの事で、それが家庭単位で気軽にできるという現代は、とても贅沢な環境にあるように思えます。自然現象として氷点下に気温が下がる事はあるのですが、その中で氷結した物を食べようという発想自体も充分な暖房が行える現代ならではのものという事ができます。

 暖かい気候の中で冷たい物を珍重する記録は古くから残され、古代ギリシャの医学の祖ともされるヒポクラテスは、「冷たい飲み物は体を活きいきとさせ、健康を増進させる働きがある」と記し、アレキサンダー大王は兵士達の士気を高めるために高山から氷雪を運ばせ、果汁に糖蜜を加えた冷たい飲み物を振舞ったという記録が残されています。

 万年雪がある高山が存在する地域では、氷雪を切り出して溶けないうちに運ぶ事ができれば暑い夏でも冷たい飲み物を作る事ができ、困難を伴う運送を迅速に行う事ができる事は権力の絶大さを表現する事ともなっていて、そんな様子が「千夜一夜物語」に冷たい飲み物「シャルバート」として登場します。

 シャルバートの製法は9世紀にシチリアを征服したアラビア人によって持ち込まれた、11世紀にシリアに侵攻した十字軍によって持ち帰られた、シルクロードを経由して中国へ伝えられていた製法がマルコポーロによって持ち帰られたと諸説があって定かではないのですが、モンゴル帝国のクビライが父の病を癒した「舎里八」なる妙薬を求め、もたらされた舎里八の美味しさに驚嘆した事が伝えられていて、舎里八がシャルバートの漢字訳とされる事から、シャルバートの存在は広い地域で知られていた事が伺えます。

 シチリアに伝えられたシャルバートは「ソルベット」として洗練され、飲み物から果物やナッツ類を使った氷菓へと変貌していきます。1533年、フィレンツェの大富豪、メディチ家のカトリーヌとフランスのオルレアン公アンリ・ド・ヴァロア(アンリ2世)の婚礼の際、イタリアの優れた食文化がフランスに伝えられ、同伴した料理人の中には氷菓職人も含まれていたとされます。

 宮廷で催された披露宴では豪華なイタリア料理が振舞われ、その中にあったソルベットの美味しさにはフランスの貴族達も大変驚いたとされます。こうしてフランスへ伝えられたソルベットは、生クリームを多用するフランスの食文化と融合し、アイスクリームへの道筋を得る事となります。

 1560年、錬金術の研究によって近代科学への扉が開かれるようになると、物を冷却する事についても新たな技術が開発されます。氷に硝石を混ぜる事で著しく低温が得られる事が発見され、氷菓作りにも大いに利用される事となります。

 イタリアのソルベットを原形としたフランスのシャーベットはその製法が長らく国家機密とされていましたが、17世紀末、フランソワ・プロコープの手によってホイップクリームを凍結させた「グラス・ア・ラ・シャンティ」が考案されると、アイスクリームとして徐々に庶民の間にも浸透していきます。

 やがてアイスクリームは新天地アメリカにも伝えられ、盛んに牧牛が行われていたアメリカにおいて産業化のきっかけを得る事となります。1851年、ボルチモアで牛乳の販売を商っていたヤコブ・フッセルは余ってしまった生クリームの処理を思案していた際、アイスクリームに加工して販売する事を思い付きます。すぐに牛乳工場の一部を改築してアイスクリームの工場にし、1870年代にはアンモニアガスを用いた冷凍法を採り入れて本格的なアイスクリームの工場生産が開始されています。

 それまで手作りされて小規模な販売に留まっていたアイスクリームの製造販売は、工業化された事で一気に生産規模が大型化してコストが下がり、販売価格の低下によって庶民の間に急速に浸透する事となります。そうして多額の利益を得たフッセルはその利益を親友であるリンカーンに提供し、リンカーンによる奴隷の解放に協力したとされます。

 かつて権力を誇示する象徴的な存在ともいえた冷たい飲み物は、古代ローマの皇帝、シーザーやネロにも大いに好まれたとされます。時代と共にさまざまな文化を取り込み、洗練されながら今日、庶民の身近な食べ物となり、奴隷制度の廃止という大きな歴史の転換にも貢献したアイスクリームを、シーザーやネロはどのように見るのか、とても興味深く思えてきます。


 

第1946回 冷たいお菓子(1)



 気候が良くなり、日中は暑さを感じるようになってくると、大好きなアイスクリームがより美味しく感じられてきます。普段、何気なく食べているアイスクリームも裏面などに書かれた表記にふと目を止めると、微妙な違いで細かく種類分けされている事に気が付きます。

 改めてアイスクリームという言葉について考えてみると、かなり乱暴な使い方をしていて、氷結している果汁などをまとめてアイスクリームと呼んでしまっていたりもします。凍ったまま供されるお菓子である「氷菓」は、非常に広範囲の物を含み、アイスキャンディやシャーベット、かき氷、アイスまんじゅう、フローズンヨーグルトなどを指し、アイスクリームもこの中に含まれています。

 アイスクリームと一言でいってはいても、その中で明らかに違う物としてシャーベットがあります。シャーベットは果汁などから作られたシロップを水で薄めて凍らせた物ですが、薄めたシロップに細かく砕いた氷を加えた飲料もシャーベットと呼ばれています。

 アラビアの飲み物、「シャルバート」が元になったとされ、9世紀にシチリアを征服したアラビア人によってヨーロッパへ持ち込まれたとされます。しかし、それ以前にも古代ギリシャやローマでは高山で得られた雪をワインに加えて飲む習慣があり、それがシャーベットの原形と見る事もでき、氷菓の歴史の古さを伺う事ができます。

 シャーベットよりもアイスクリームに近いもので、やはり同じようにアイスクリームと呼んでしまっている物にアイスキャンディがあると思います。アイスキャンディは果汁や牛乳、水などに甘味料や香料、着色剤を加えて氷結させた物で、多くの場合、食べやすいように木製やプラスティック製の棒が差し込まれています。

 アイスキャンディの歴史は1905年、サンフランシスコでフランク・エバーソンという11歳の少年がストローをジュースに挿したまま屋外に放置してしまい、翌朝、凍り付いたジュースを発見した事がはじまりとされ、果汁を氷結させるという発想自体はそれほど珍しくないように思えながら、歴史は意外と浅いものとなっています。

 アイスキャンディは乳成分の有無などによってシャーベットとアイスクリームの中間のように思えます。牛乳を使ったアイスキャンディとアイスクリームの間の大きな違は、その製法にあるという事ができます。単純に氷結させて作るアイスキャンディに対しアイスクリームは、牛乳を冷しながら空気を含ませるように撹拌してクリーム状にし、それを凍らせて作られます。凍り付く手前の軟らかい状態の物がソフトクリームで、完全に凍らせた物がアイスクリームとなっています。

 そうして作られる物の中で、厳密な意味でアイスクリームと呼べるのは乳固形分が全体の15%以上含まれ、その中に乳脂肪分が8%以上含まれる物となっています。それよりも乳固形分が少ない物で乳固形分が10%以上、乳脂肪分が3%以上含まれていればアイスミルクと呼ばれます。

 アイスミルクよりも乳固形分が少ない物でも乳固形分が3%以上含まれていればラクトアイスと呼ぶ事ができ、市販のアイスクリームの多くがこのラクトアイスとなっています。

 乳牛から搾ったままの生乳を使ってアイスクリームを作ると乳脂肪分が4%程度になる事からアイスミルクができるため、アイスクリームを作る際は生乳に生クリームを加えたり、生乳を濃縮して乳脂肪分の比率を高めて作られています。

 たまに気が向くと生クリームを使ってアイスクリームを手作りするのですが、とても濃厚な味に仕上がります。生クリームのみで作ると乳脂肪分が50%近くにもなる事から、市販のアイスクリームとはかなり違った物となっています。多少手は掛かりますが、他では味わえない家庭の味というのも良いものかもしれないと思っています。


 

第1945回 脳の老化



 生まれた直後から症状の進行がはじまり、長い歴史を通して世界中の人が罹患しているのにも関わらず、いまだに治療法が見付かっていない死に至る病、それが老化ではないでしょうか。生物は進化の過程でさまざまな不具合を克服する術を獲得してきていますが、老化を克服しようとしなかった背景には老化と成長が一対ののものであり、老化してしまう事よりも成長する事のメリットの方が大きかったからだと聞かされた事があります。

 成長のために必要な事であり、避けられない自然な事なら受け入れて年齢なりの生活を送っていきたいとは思うのですが、できるだけ老化を遅くする工夫はして、いつまでも若々しくとは思ってしまいます。特に脳の老化はさまざまな事への影響も大きい事から、できるだけ遅くと願っています。

 脳はよく知られているように大脳、小脳、脳幹の3つの部位に分けられ、大脳は視覚や聴覚、嗅覚といった感覚や体の各部の動き、記憶や思考、感情などに関与し、小脳は大脳が司る運動を制御し、脳幹は呼吸や血液の循環、生命維持に必要な機能をコントロールしています。

 複雑極まりない脳の働きは150億以上もの神経細胞、ニューロンが関わっており、ニューロンが単体でそれぞれの機能を果たすのではなく、シナプスと呼ばれる1万個以上のニューロン同士が網目のようなネットワークを作り、それぞれの接合点において行われる情報伝達によって支えられています。

 脳の老化は年齢と共に誰にでも訪れる「生理的な老化」と、外傷や脳梗塞などの病気によって起こる「二次的な老化」があるとされます。脳のニューロンが年齢や外傷、病気によって破壊されて脱落した結果として脳が萎縮する、それが脳の老化の外観的な特徴となっています。

 二次的な老化は外傷や病気がニューロンを損傷する場所が人によって異なる事から、症状の出方に個人差が大きくなっているのですが、生理的な老化については物忘れがひどくなる、新しい事を覚える事が苦手になる、とっさの判断が遅れる、思考の柔軟さが低くなるといった特徴がよく上げられ、年齢と共にそうした傾向が強くなるという意識は広く定着しているように思えます。

 物事を覚えて、必要な事を思い出すという記憶力や俊敏に状況に対応するといった運動反応などの流動的な能力が老化によって衰える事は仕方なく、学習や経験などによって得られた言語知識や判断力などの定着性の能力は衰えにくく、論理的な思考や物事の本質を見据える能力などは逆に向上するというのが定説となっています。

 記憶力については、記憶力を競うコンテストを見ていると上位に比較的高齢なエントリーが多く、一様に年齢と記憶力の低下が反比例の関係にあるようには思えない部分があり、年齢と共に記憶力が低下する事を受け入れて、補う努力をしない事が大きいようにも思えます。

 生理的な老化による萎縮についても、20歳を過ぎたあたりから1日に10万個以上のシナプスが失われていくともいわれますが、150億以上とされる膨大な全体量からは大した損失とはいえない上、脳内のすべてのシナプスがフル稼働している訳ではなく、最大でも30%以下という低い稼働率で、何かが失われてもそれを稼動していない部分が補う仕組が用意されている事を考えると、脳の老化はかなり遅らせる事ができるように思えてきます。

 老化を理由に脳を怠けさせない、同じ事の繰り返しでも違う見方をするなどして常に脳に刺激を与え続けたり、いろんな事に好奇心を持って新しい事にも取り組んでいく必要性を感じます。脳はブドウ糖しか栄養とせず、大量の酸素も必要とします。刺激を与えてブドウ糖を供給し、酸素の循環を良くするといった事を意識していくと、健康的な生活が脳の老化防止の第一歩と思えてきて、何事も基本は同じなのだと改めて思ってしまいます。


 

第1944回 連結と境目


 健康食品の素材などとして「ペプチド」という言葉を耳にします。比較的馴染みのある言葉のように思えるのですが、漠然としていて今一つ判りにくい物のようにも思えます。

 ペプチドという名前の由来は、ギリシャ語で「消化される物」という言葉にあります。その名前の由来が示すようにペプチドは消化吸収に関係していて、タンパク質が消化される過程でペプチドは生じています。

 タンパク質は人間にとって三大栄養素の一つであり、生命を維持する上で欠かす事のできない物となっています。しかし、タンパク質を摂取してもタンパク質のままで吸収される事はなく、アミノ酸の状態にまで分解されてはじめて体は栄養素としての吸収を行います。

 よくさまざまなタンパク質を含む食材の栄養的価値を計る際、「アミノ酸スコア」という指標が使われますが、アミノ酸スコアは必須アミノ酸がバランスよく含まれているかどうかを採点したもので、栄養素としてタンパク質を摂取する事はアミノ酸の摂取を目的としているという事ができます。

 体がタンパク質を吸収する際、完全なタンパク質の状態ではなく、もう少し大きな状態でも吸収する事ができます。その際、吸収されているのがアミノ酸が数個繋がった状態の物で、それがペプチドと呼ばれています。

 ペプチドはアミノ酸が複数個繋がった物なので、二個から数十個というペプチドが存在し、たくさんのアミノ酸が繋がってできているペプチドはポリペプチドと呼ばれますが、アミノ酸がたくさん繋がった物がタンパク質である事から、ポリペプチドとタンパク質の境目は曖昧なように思えてきます。

 実際、ペプチドやタンパク質に含まれるアミノ酸はアミノ酸残基と呼ばれますが、アミノ酸残基数が39のホルモンはポリペプチドとされ、50のインシュリンはタンパク質とされていて、39と50の間にペプチドとタンパク質を分ける境目が存在しているようなのですが明確な規定は存在していません。

 ペプチドはアミノ酸が複数まとめて吸収される事から、アミノ酸としての吸収効率に優れているという事ができ、優秀な栄養源という事ができます。そのため健康食品の素材と成り得るように思えてくるのですが、栄養補給が目的ではなく効能効果を標榜するペプチド製品も多く見られます。

 ペプチドの元となったタンパク質が由来する素材の名前を採り「ミルクペプチド」や「大豆ペプチド」、「卵黄ペプチド」といった名称を見掛け、素材からイメージされる効能効果がいわれる事も多くなっています。

 素材ごとに含まれるアミノ酸の量が異なり、それによってペプチドを構成するアミノ酸も違ってくる事が考えられる事や、ポリペプチドがホルモンとして働く事を考えると何らかの効能効果を発揮してくれるようにも思えてきます。

 ペプチドを形作るアミノ酸の「ペプチド結合」は非常に強固で、強酸性か強アルカリ性の条件化でしか加水分解する事ができないのですが、体内ではペプチド結合のみを選択的に加水分解するペプチダーゼやプロテアーゼといった酵素も存在し、容易にペプチドを分解してしまいます。

 そうしてペプチドは速やかにアミノ酸に分解され、体内でタンパク質の合成に利用されます。よくタンパク質の一種であるコラーゲンを摂る事で体内のコラーゲンが増えるといった事を耳にしますが、コラーゲンを分解したアミノ酸は必ずしもコラーゲンになるとは限らない部分があり、タンパク質といった栄養素への理解の難しさを感じさせてくれます。

 タンパク質とそれを構成する最小単位のアミノ酸、アミノ酸が数個繋がったペプチド、多くの製品が存在する割にはそれを理解する情報が不足しているように思えます。よく理解した上で利用できる状況を作る。イメージを先行させる前に何より大切な事と思えます。


 

第1943回 獲得味覚



 日々いろんな味覚を楽しんでいます。基本的な味覚は甘味、塩味、苦味、酸味、旨味の五味とされ、最近の研究で脂味やカルシウム味なども味覚として感じている事が判ってきており、味覚の世界も広がってきているという事ができます。

 古代ギリシャの哲学者、アリストテレスは味覚を五味ではなく七味に分けており、甘味、塩味、苦味、辛味、酸味、渋味、ザラザラ味としていました。ザラザラ味は今日でいうカルシウム味に相当するのではと想像しながら、苦味と渋味を分けている点を興味深く思ってしまいます。

 日本では苦い系統の味を苦味、渋味、えぐ味などに分けて表現しますが、生理学的にはそれらは同一の味覚であるとされます。苦味の素となる成分が口の中に入ると、粘膜のタンパク質と結合して変性させ、「収斂作用」と呼ばれる変成作用が起こります。苦味はそれによって生じる感覚とされ、痛みや触覚に近いものとして捉えられています。

 味覚は食べ物を識別するために獲得した能力という事ができます。甘味は直接的なエネルギー源となる糖質の存在を知らせてくれ、甘味の感じられる物を食べる事で当座のエネルギーを確保する事ができるため、甘味は重要な味覚となっています。

 塩味はナトリウムやカリウム、マグネシウムといったミネラル類の存在を感じさせてくれるもので、神経の伝達や細胞の活性など生命の維持に欠かせないミネラル類を確保するための味覚といえ、旨味はタンパク質の存在を感知するための味覚となっています。

 基本的な味覚の中で甘味、塩味、旨味は生命の維持に必要な栄養素の確保に関係していて、それらがより多く含まれている食べ物を美味しいと感じさせて積極的に摂取する意欲を起こさせます。それに対し酸味や苦味は一定量を超えて含まれていると美味しいと感じる事ができなくなり、積極的に求めるという性質の味覚ではないように思えます。

 本来、酸味は有機酸の存在を感知する味覚で、腐敗や発酵によって食べ物の質が変化し、食べられない状態になっている音を感知する機能という事ができます。苦味は植物が持つアルカロイド系などの毒物の味であり、多くの毒物が苦味を持つ事から苦味は避けるべき味として認識されます。

 そのため酸味と苦味に関しては他の味覚よりも敏感に察知するようになっていて、酸味の存在は甘味や塩味の50倍以上、苦味にいたっては1000倍以上も鋭敏に察知する事ができます。

 肉食動物は酸味や苦味に対して敏感であり、雑食性の動物、草食動物と酸味、苦味への感性が鈍くなる傾向があります。植物には毒とまではいかなくても酸味や苦味を含む物があり、そうした物を食べるために草食動物は鈍感になり、雑食性の動物はさまざまな食材を食べる事でリスクを分散させている事、肉食動物は捕獲した動物のみに食料が限られる事などが酸味や苦味を敏感に察知し、それを避ける傾向に繋がったと考える事ができます。

 腐敗や毒の存在を感じさせる酸味と苦味ですが、子供の嫌いとする食べ物に含まれている事が多く、特に苦味は嫌われる傾向が強くなっています。成長に伴って苦手だった酸味や苦味を受け入れるようになるのは、腐敗を進行させる細菌に対する免疫力、腐敗によって生じた毒素や食材にもともと含まれている毒物を分解してしまう解毒力などが成長によって高まる事で、間脳による制御が弱まる事もあるのですが、親や身近な家族が美味しそうに食べる事でその食材が持つ酸味や苦味が安全なものであるという情報が積み重ねられる事も重要となっています。

 発酵食品の酸味、コーヒーやピーマン、山菜やビールの苦味、チョコレートやワインの渋味など食文化の中には欠かせない味覚となっています。先天的に求めるのではなく、後に獲得して美味しさとして感じるようになる味覚ともいえ、美味しく感じられる事を何よりありがたく思えてきます。


 
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