第3023回 覆る神話



 糖質制限ダイエットの登場でカロリーや脂質に関する考え方が一変したように、健康に関する考え方は時として大きく変化してしまう事があります。そんな中、これだけは揺るがないだろうと思っていた「減塩」に対する考え方が変わろうとしています。

 事の起こりは2013年にアメリカ医学研究所から出されたレポートで、それまで塩分の摂取を制限する事で血圧の低下が見られる事から、減塩する事は健康に有益とされてきましたが、実際に疾患予防に繋がっているのかについては検証されておらず、塩分摂取量を減らす事が病気を減らしているのか検証したものでした。

 その後、いきすぎた減塩が認知症のリスクを増大させたり、動脈硬化に繋がる事が指摘されるようになり、多くの研究が減塩が健康の増進に寄与しない事を示すようになります。

 特に2014年に発表された論文では、10万人以上の男女を対象に4年近くも追跡調査を行い、尿中に含まれるナトリウム量の計測から日常的な塩分の摂取量を計算し、塩分摂取と心血管疾患やそれが原因で死亡するリスクについての検証を行った結果として、一日に15g以上を摂取する塩分過多のグループではリスクが増大すると同時に7.5g以下の摂取量が少ないグループでもリスクが高まるという結果が報告されています。

 塩分の摂取量とリスクの高まりをグラフに描くと、少な過ぎる塩分摂取量は心血管疾患のリスクを高め、徐々に摂取量が増えるに従ってリスクが下がり、一日に13g程度を底にリスクは高まるようになり、アルファベットの「J」を横に広く書いたような曲線を描くようになります。

 そうした結果に対して、人間は元来、食肉や獲物の血液などから生命の維持に欠かせない塩分を得ていましたが、それらは非常に少ない事から塩分を体内に貯め込んでおく仕組みが発達していて、塩分が不足すると腎臓のセンサーが反応して塩分を体外に逃がさないように「レニン」を分泌してアンジオテンシンを活性化させます。アンジオテンシンには動脈硬化や臓器障害を高めてしまう副作用がある事から、減塩で健康リスクが高まってしまうという仮説が立てられています。

 ナトリウムは人にとって極めて重要な物質で、摂取量を制限する事で弊害が生じる事は当然という意見もあり、今後、健康維持には塩分を減らせば減らすほど良いという常識も覆る事となると思えます。減塩神話が揺らぐ中、何事もほどほどにという事だけは普遍的だと思ってしまいます。


 
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第3022回 逃げ水を追って



 子供の頃に読んだ本に砂漠の蜃気楼が「逃げ水」と表現されていて、砂漠を彷徨う旅人がやっとの思いでオアシスを発見し、そこまでいけばと最後の力を振り絞って進むと、オアシスと思えた光がさらに先の方へと移ってしまっているという事が怖ろしく思えていました。

 同じような事は砂漠のオアシス探しに限らず多くの場面に存在し、高圧物理学の世界では「金属水素の生成」もその一つとなっていました。

 水素は私たちにとって非常に身近な存在で、酸素と結合した水は生命の維持に欠かせないものとさえなっています。最近では燃料電池や水素で走る自動車も開発され、「来るべき水素社会」という言葉も聞かれるようになってきています。

 そんな水素はマイナス253度まで冷やすと液状化する事が知られ、ロケットの燃料として使われています。さらに低い温度まで冷やすと水素は個体となるのですが、ここまではまだ人類にとって馴染みのある水素の姿という事ができます。

 金属水素は水素に非常に高い圧力をかける事で金属化したもので、その存在は80年も前に予測されていましたが、未だに誰も見た事がない物質となっていました。

 通常、水素は水素原子二つが結合した「水素分子」の状態で存在し、水素原子が持つ一つの電子をお互いに共有する形を持っている事から安定した物質となっていて、電子の状態が安定している事から電気を通さない絶縁体となっています。

 水素分子に非常に高い圧力を掛けると電子を共有している状態が崩れ、水素原子が規則正しく並びながら電子が自由に動き回れるという金属の状態になると考えられています。理論上は存在するとされながら、水素をその状態にするまでの圧力は地球上には存在せず、地球よりも質量が大きな木星や土星の中心部分には液状化した金属水素が存在すると考えられていました。

 存在が予想されてから80年以上もの間、どのくらいの圧力を掛ければ水素が金属化するのか、どのようにしてそこまでの圧力を発生させるのかといった問題が科学者たちを悩ませ続け、何とか必要と思える圧力を発生させる装置を開発しては充分ではない事が判るだけで、生成に必要とされる圧力の数値がどんどん上がっていき、砂漠の逃げ水状態に陥っていました。

 そんな金属水素について、昨年の10月、ハーバード大学の研究チームが生成に成功した可能性がある事が報じられていました。ダイヤモンドを使った特殊な万力のような装置を使った実験では、495GPa(ギガパスカル)もの圧力を発生させ、装置の中の水素が金属のような光沢を放つ事が観察され、その反射率から理論的な金属水素の性質との一致が確認されています。

 495GPaというと私たちが普段、意識せずに感じている大気圧(1気圧)の495万倍という途方もない数値で、地球の中心部分に掛かる圧力よりも高いものとなっています。

 現時点では、実験は一度しか行われておらず、本当に成功したのかについては多くの検証を必要とするとされていますが、実用化に成功すると世界は大きく変わるともいわれています。

 金属水素は常温でも超電導の性質を持つとされる事から、送電やエネルギーの貯蔵システム、リニアモーターカーや電気自動車、コンピューターや携帯電話にも影響を与える事が考えられ、エネルギー効率の向上は地球温暖化を防ぐ事にも繋がります。

 それ以上に金属水素はそのものをエネルギー源とする事も考えられていて、生成された金属元素が水素分子に戻る際、膨大なエネルギーが放出されるとされ、そのエネルギー量は強力なTNT火薬が爆発する際の50倍にも上るといいます。

 現在、液体水素を燃料としているロケットのエンジンに応用した場合、4倍近くも効率を上げるともいわれ、宇宙開発も大きく変わるとも考えられています。

 想像上の存在でしかなかった金属化した水素ですが、逃げ続ける砂漠のオアシスにたどり着ける可能性が見えたようで、世界が変わる瞬間を見てみたいと期待が高まってしまいます。


 

第3021回 巨匠のパスタ



 発想力が貧困なので、決定的に才能が欠如している事は自覚しているのですが、どのような職業にでもなれるとすると、思わず工業デザイナーと答えてしまいます。

 日々接する工業製品の中には機能的なだけでなく、その機能をより良く発揮できるように工夫されながら美しさも同時に表現された機能美に溢れるものがあり、思わずそんなデザインを手掛けた人を尊敬してしまいます。

 そんな工業デザイナーの頂点の一人がイタリアのジョルジェット・ジウジアーロ氏で、数々の名車を世に送り出したデザイナーとして世界的に広く知られています。

 ジウジアーロについて驚かされるのは、優れた感性から生み出されるデザインの素晴らしさもさる事ながら、その活動期間の長さで、最初に注目されたゴードンGTが発表されたのが1960年のジュネーブモーターショーとされる事から、実に57年もの長きに渡ってデザイナーとしての活動を続けています。

 彼の長いキャリアは特異なスタートに関係していて、画家を志して美術学校に在籍していた際、たまたま描いたフィアットの500のイラストが500を設計したダンテ・ジアコーザの目に止まり、高く評価された事で高校を中退し、17歳でフィアットのデザイン部門に入社しています。

 その後、多くの名車を手掛けて自動車デザインの第一人者として君臨し続けるのですが、1981年には自動車以外のデザインを手掛ける会社としてジウジアーロ・デザイン社を設立し、幅広い活動を開始しています。

 日本でも一眼レフのカメラやスキーブーツ、カセットテープや徳利、猪口なども手掛けたそうなのですが、変わったところではパスタのデザインも手掛けるという多才さを見せています。

 彼が手掛けたのはパスタのパッケージではなくパスタそのもので、世界的なパスタメーカーの傘下のブランド、ヴォイエッロ社から「マリッレ」の名で発売されています。

 ヴォイエッロ社は昔ながらのブロンズ製の金型にこだわったメーカーで、近代的なステンレスや樹脂コートを施した金型にはできないパスタ表面のザラつきによるソースの絡みやすさを大切にしています。

 ジウジアーロはそんなこだわりのザラつきを活かしながらパスタの断面を「β」の形に似せたものにして、単に美しいだけでなく茹で上がったときのしっかり感やソースの絡みやすさ、連続生産のしやすさといった事を高い次元で実現しています。

 現在ではマリッレは生産終了となってしまっているのですが、マリッレを手掛けた30年後、パスタプロジェクト30周年を記念し、そして彼と共に45年に渡って仕事を続けてくれた従業員に感謝して、第二作となるパスタ、「グスト」が製作され、従業員に配られています。

 グストの製作に当たったのはナポリにある老舗のメーカー、アフェルトラ社で、ヴォイエッロ社同様にブロンズの金型にこだわり、筒型のパスタを二つくっつけたような「∞」の断面を持つグストを生産しています。

 グストは関係者を中心に配られたそうですが、実際に茹でて食べてみると他のパスタとは少々異なる独自の弾力を感じるそうで、ソースの絡みもよく、茹でムラもほとんどないといわれます。

 ジウジアーロのデザインというと、世界的な高級品という感じがしてしまいますが、巨匠が手掛けたパスタ、一度食べてみたいと憧れてしまいます。


 

第3020回 コーヒーの不思議



 伝説では9世紀のエチオピアでヤギ飼いの少年、カルディが夜も寝ずに興奮して飛び跳ねるヤギに手を焼いて修道僧に相談したところ、山に自生している木に成る赤い実を食べた事が原因と判り、その後、修道院で眠気覚ましとして利用されるようになったというのがコーヒーの歴史の始まりとされます。

 しかし、コーヒーの果実は食用にできる事から赤く実った果実を食べていた事は、もっと古い時代から行われていた事が考えられ、コーヒーと人との関りはさらに古いものとなっていきます。

 高原地帯にコーヒーが自生しているエチオピアでは古くから果実を食用とするだけでなく、種子も「ボン」と呼んで煮て食べていました。葉は乾燥させたものは「アメルタッサ」、炒ったものは「カティ」と呼んでお茶として飲んでいます。

 やがてボンはアラビア半島に伝わってアラビア語で「バン」と呼ばれるようになり、バンを煮出した煮汁の「バンカム」が飲まれています。バンカメに関する記述で最古のものはイランの哲学者であり医学者でもあったアル・ラーズィーによるものとされ、9世紀の事とされるため、カルディ少年のエピソードと時期的に近くなってしまいます。

 記述によるとバンカムの淹れ方は、乾燥させたバンを臼ですり潰して粉に挽いたものを熱湯に入れて煮出しており、まだ豆を事前に焙煎するという事は行われていなかった事が窺えます。

 コーヒー豆が焙煎されるようになるのは13世紀になってからの事で、香ばしい風味が加わった事で広く好まれ、かつてイスラム神秘主義者の秘薬とされていたコーヒーは嗜好品としての色合いを濃くしていきます。

 コーヒー豆が焙煎されるようになった経緯については不明となっていますが、15世紀のものとされる焙煎用の道具がトルコやイラン、エジプトなどで発掘されている事から焙煎したコーヒーの美味しさは急速に広まった事が判ります。

 日本におけるコーヒーの始まりは1804年に長崎の出島で太田蜀山人が飲んだのが最初とされ、随筆、「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」に「焦げ臭くてとても味わえるものではない」という感想を述べています。そんな日本で後に缶コーヒーという独自の文化が花開くのは、コーヒーが持つ不思議な縁の一つと思えます。


 

第3019回 身近な美味しい危険物



 子供の頃、さまざまな戦争当時に関する話を聞かされていて、徴兵検査を免れるために多量のしょうゆを飲んで体調不良に陥っていたという事を聞き、しょうゆは身近の存在する危険物のように思えていました。

 漫画の中にも同じ事を示す場面が登場し、コップ一杯のしょうゆを一気に飲み干していたのですが、飲み過ぎて命を落としたり、怖れから飲む量が足りず、気分が悪くなった程度で徴兵検査を通過してしまった人もいたと聞かされると、適量には個人差もあり、扱いが難しい毒物のような印象を受けます。

 しょうゆを多量に飲用すると何故、体調不良に陥るのか。それは体内のナトリウムとカリウムのバランスが崩れてしまう事にあります。体液中のナトリウム濃度は約0.9%ですがしょうゆの濃度は5%程もあり、またナトリウムは摂取したほとんどが吸収されるため、しょうゆを多量に摂取すると体内のナトリウム濃度が急激に上昇してしまいます。

 ナトリウム濃度の急激な上昇を感じると体は「喉が渇いた」という指令を出し、水分を摂る事でナトリウムの濃度を下げようとします。その段階で充分な水分を摂取する事ができれば問題はないのですが、水分の摂取が間に合わず、ナトリウムを排出する事も出来ない場合、体液の浸透圧が上昇してしまって細胞内の水分が体液側へと移動してしまい、細胞が障害を受けてしまう事になります。

 そうした細胞内脱水によって細胞の中心、核に障害が及ぶと細胞自体の崩壊が始まり、それが脳細胞に起こると神経の異常や痙攣、昏睡といった脳症を引き起こし、最悪の場合、死に至る事になってしまいます。

 成人が高ナトリウム血症を起こした場合の死亡率はあるデータでは約50%ともいわれ、その危険度の高さを伺う事ができます。そのため身近な塩であっても致死量は体重1kgあたり3~3.5gとされ、体重が60kgの大人の場合、180~210gとなります。

 しょうゆに含まれる塩分の濃度は16~18%とされる事から、1リットルのしょうゆであれば致死量となる塩分を含んでいる事になります。実際、2003年にはアメリカで19歳の少年が1リットルのしょうゆを飲み、昏睡状態に陥って治療を受けるという事故が起こっており、医師たちの懸命の治療によって一命を取り留め、一か月後には大学に復帰したそうですが、身近なしょうゆも量次第では危険物となる事が判ります。

 コップ一杯のしょうゆとなると200ccと仮定して36gの塩分を含む事となり、致死量には届きませんが、何が起こるのか試してみるといった事は絶対に避けた方が良いと思えてきます。


 

第3018回 文豪に思う(3)



 大正2年(1913年)に出版された岡崎桂一郎の「日本米食史・附食米と脚気病との史的関係考」に鴎外は序文を寄せており、その中で「臨時の脚気病調査会長になって、米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」としており、精米された白米を食べる事で不足する栄養障害が脚気の正体である事を知っていたと語っています。

 それにも関わらず栄養障害説を無視するというより排除する方向へ動き、細菌原因説に固執した事が調査会が正しい結論を出す事を遅らせ、脚気の被害を拡大させた事になります。

 そうした脚気との関わりについて鴎外を擁護する意見もあり、そもそも一軍医部長が軍隊の運営に関わる決定が行えたのかともいわれます。

 経験的に脚気の発生を低減させる事が知られていた麦飯の採用に否定的な立場を採り続けた事についても、当時は麦の生産量が少なく、陸軍の全体を賄う量が確保不可能だった事や、輸送能力が充分ではなく、離れた前線には届けられない事を考慮した結果とも考えられます。

 また、白米は庶民にとっては憧れのご馳走であり、麦飯は貧しい食として蔑まれていただめに、死の危険に晒される兵士には良い物を食べさせたいという現場の感情的なものもあったとされます。

 富国強兵が合言葉のようになっていた当時、数十万人単位の兵士の食料は自国で自給できる食べ物で賄うべきという考えが当然視される中、鴎外は「日本兵食論大意」において陸軍軍医として兵食の栄養学的研究が中心的課題であり、脚気はその中の一部の問題に過ぎないという立場を採っています。

 そのため確たる理論や信念を持たない門外漢として関わらざるを得ない事から、当時の学術的権威の間違った説を信じ、事態を悪化させてしまったとも考える事ができますが、やはり軍医たる者、兵士の健康、生命を第一に行動してほしかったと思えてしまいます。

 

第3017回 文豪に思う(2)



 ビタミンや必須アミノ酸といった概念がない時代、生命を維持するために欠かせない栄養素でありながら食を通してしか摂取する事ができず、それを含む食材が得られないために体調不良が引き起こされてしまう事は身近な危険となっていたといえます。

 ビタミンB1の不足によって引き起こされる脚気もそうした体調不良の一つで、長い間、原因不明の謎の疾患とされながら、最悪の場合、死に至る病として怖れられていました。

 日本人と脚気との関わりは非常に古いとされ、いつごろから脚気の症状が見られていたのかについては正確には把握されていませんが、「日本書紀」や「続日本紀」にも脚に見られる病として脚気と判断できる疾患が記されています。

 平安時代以降、上流階級に見られる疾患として脚気は発生していたのですが、江戸時代に入って玄米に代わって白米が食べられるようになると一般の武士や町人の間にも発生するようになり、特に白米を常食としていた江戸の街で多く発生し、江戸を離れると症状が改善される事から「江戸患い」として知られるようになっていました。

 明治時代を迎え、江戸が東京と改められても江戸患いこと脚気は発生し続け、毎年、多くの死亡者を出していました。明治期の脚気の特徴は東京などの都市部に発生が集中するだけでなく、陸軍の鎮台が置かれた街でも流行が見られていました。

 脚気の原因究明を難しくしていたのはその症状の多彩さと、抵抗力の弱い子供や高齢者ではなく、一見、元気そのものの若者が冒される事、良い食事を摂っていると見られる者が患者となってしまう事などがあげられます。

 特に良い食事を摂っている者が患者となる事は、脚気を栄養障害によって引き起こされるという事実から遠ざけていて、そのために伝染病説も有力視されていました。そんな中で陸軍の軍医として脚気克服に取り組まざるをえなくなった鴎外、伝染病説を採っていたドイツ医学をベースとしていた事が悲劇に繋がったようにも思えます。


 

第3016回 文豪に思う(1)



 森鴎外というと明治から大正にかけて小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚と幅広く活躍した近代の偉人で、小学校の教科書ででもその名に出会う事ができる歴史上の偉大な人物として知られています。

 特に代表作の「舞姫」は名作として知られ、高校の教科書で原文を呼んだ際は、現代の小説との文体の違いに驚きながらも独特な世界観に時を越えて読み継がれる名作の一端を感じる事ができました。

 そんな偉大な人物の森鴎外なのですが、二つの理由によってどことなく素直に尊敬する事ができずにいます。一つは個人的な事なのですが、自身をモデルにして書いたとされる小説、舞姫の中でヒロインのエリスをもっと大切にする事ができなかったのかという事で、時代背景や代々藩医を務めてきた家柄の出身といった諸事情はあるにせよエリスを幸せにする事を優先してほしかったと思ってしまいます。

 もう一つの理由は、どちらかといえばこちらの方が遥かに大きいのですが、ビタミンの存在が知られていなかった当時、命に関わる重大な問題の一つだった脚気の原因を感染症説に固執し、経験的に知られていた麦飯の効果を否定して犠牲を拡大してしまったという事にあります。

 古くから江戸患いとして知られ、死に至る事もある重大な疾患として扱われてきた脚気に対し、鴎外は陸軍省医務局長に就任するなり臨時脚気病調査会を設立して脚気の調査と克服に当たっています。

 調査会では脚気の原因解明が最大の目的とされ、陸軍大臣の監督の下、国家機関として多くの研究者が集められ、多額の予算が投入されて脚気研究の土台を作り、ビタミン研究の基礎を築いたともいわれています。

 その反面、鴎外が研究会で活躍した16年は、脚気の栄養障害説(脚気=ビタミンB1欠乏症)に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけのものでしかなかったという評価もあり、鴎外が柔軟に脚気に向き合ってさえいれば陸軍だけでも約25万人の罹患者、約2万7千人もの犠牲者は生じなかったとも考えられます。

 ビタミンの存在が知られていない時代の事ではありますが、今日でも意見が分かれる鴎外と脚気、微妙な思いの目を向けてしまいます。


 

第3015回 サビ抜きの標準化



 牛深を訪れた際、必ずスーパーの鮮魚コーナーを訪れて新鮮なコウイカが売られていないか確認します。パック詰めされたコウイカにラップの上から軽く触れると、コウイカの表面の色が流れるように変化して、まるで液晶のような色合いに新鮮さを感じる事ができ、帰宅してからの調理が大変になると思いながらつい購入したりもします。

 その後、横の寿司のコーナーを見てお気に入りの寿司を買って帰るのですが、訪れた時間が遅かったり、何かお祝い事がありそうな時期はお目当ての寿司が売り切れていて、かろうじて「サビ抜き」と書かれたパックが残されていたりします。

 仕方なくサビ抜きを購入して帰宅し、食べてみると明らかに臭みが違い、ワサビには臭みの軽減や鮮度の保持、食中毒の防止といった役割があった事を思い出します。

 ワサビの辛味成分の中心は大根と同じアリルイソチオシアネートとなっていて、唐辛子などのカプサイシンとは異なる事から激辛ブームの際にもあまり好んでワサビを増量するとった話は聞かれず、寧ろ苦手という人が増えて、ワサビ抜きの寿司を見掛ける機会も増えてきています。

 大手の回転寿司チェーンでもサビ抜きの状態が標準となっていて、ワサビは小袋に入れられたものが用意され、ネタの上に乗せたり、しょうゆに溶いたりしてワサビの味を加えるシステムとなっています。

 流通が発達した事でかつてのワサビが必須であった理由の喪失と、ワサビの辛味を苦手とする人の増加、入っているワサビを抜く事は困難ですが、入っていないものに加えるのは比較的容易という選択への円滑化が主な理由と考えられ、合理的な変化のようにも思えるのですが、どこか味気ないものを感じてしまいます。

 そんな事を考えながらサビ抜きの寿司を食べていると、ワサビに残されたもう一つの役割に気付き、やはりワサビは必要と思えてきます。ネタとシャリに挟まれたワサビには両者を接着する役割もあり、サビ抜きでは寿司が崩れてしまう可能性が高まってしまいます。寿司という日本独自の食文化のためにも、サビ抜きの標準化には歯止めが掛かってほしいと思っています。


 

第3014回 考察、パブロバ



 徐々に人気が高まってきていて、やがてブレイクするだろうといわれるスイーツの一つに「パブロバ」があります。パブロバというと、どこか東欧系の言葉のように感じてしまうのですが、ニュージーランド発祥のお菓子で、メレンゲに生クリームや果物を添えたハレの日の食べ物となっています。

 パブロバはニュージーランドのお隣、オーストラリアでも食べられていて、オーストラリア発祥のお菓子と考えられています。ニュージーランドではニュージーランド発祥、オーストラリアではオーストラリア発祥と考えられている事から、どちらが正しいのかといった論争も起こったそうですが、明確な結論が得られているともいわれます。

 パブロバは普段の食事やおやつで食べるお菓子というよりもお祝い事や人が集まる日に出される事が多く、特別なケーキのような扱いをされていて、メインとなるメレンゲの生地だけをスーパーで買ってきて、飾り付けを各家庭で施すという事も多く行われています。

 東欧系の響きを持つパブロバという名前の由来は伝説的なロシアのバレリーナのアンナ・パブロバから来ているとされ、世界で初めてワールドツアーを行ったという彼女の行動がパブロバの誕生とその後の由来の混乱に繋がっています。

 文献上にパブロバの名前が登場するのは1926年の事で、ニュージーランド、オーストラリア、ほぼ同時期となっています。ワールドツアーを実施したアンナがニュージーランドのウェリントンを訪れた際、ホテルで彼女の名前を冠したお菓子を食べたという伝記と、オーストラリアで書かれたお菓子の紹介記事が残されています。

 1926年はアンナがワールドツアーを行った年で、ほぼ同時期にニュージーランドとオーストラリアを訪れていて、歓迎のために両国では彼女の名前を冠したお菓子が作られ、それが同じ時期に同じ名前のお菓子の誕生に繋がっています。

 しかし、両国でほぼ同時期に誕生したパブロバには明確な違いがありました。ニュージーランドで作られたパブロバは彼女が舞台で着ていたコスチュームをモチーフにした白いメレンゲが中心になっている事に対し、オーストラリアのパブロバは彼女の華やかな雰囲気を再現した色鮮やかなゼリーのようなお菓子でした。

 そのため現在のスタイルに近いニュージーランドが発祥の地という結論を得る事となるのですが、白いメレンゲがメインとなった最初のパブロバが現在のものと同じようなものなのか、オーストラリアのパブロバは何故廃れてしまったのか、依然、謎は残されているように思えます。


 
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にんにく卵黄本舗の健康コラムです。
食と健康をキーワードに最新の医療情報から科学技術、食文化や献立まで毎日更新で幅広くお届けします。是非ご覧ください。

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