第2689回 翻弄の魚肉
久しぶりに魚肉ソーセージを食べようと思って外袋から取り出すと、ケーシングの端の方に四角い小さなビニールが貼られ、そこからケーシングを切り開く事ができるようになっていて、ケーシングも楽に綺麗に剥がれて中身を取り出す事ができ、ずいぶんと進歩したものだと思いながらゴミの分別が楽なようにケーシングの端を止めている部分が金属からプラスティックに変わっているのを眺めます。
かつては刃物を持っていなければ端の部分を上手に切り開く事が難しく、切り開いてもケーシングの合せ目を使って上手に縦方向の切り目を全体に入れる途中で切れてしまったりすると、絶望的に取り出すのが難しくなっていました。
全体に縦方向の切り目を入れる事ができてもケーシングが剥がれにくい事から、中身のソーセージが曲がって折れてしまったり、ケーシング側に大量に付着して剥がれたりとあまり良いイメージがありません。そうした消費者の声を受けて工夫が行われた事が今の使いやすさに繋がっているのだと思いながら、翻弄され続けた魚肉ソーセージの歴史に思いを巡らせてしまいます。
魚肉ソーセージの開発は洋食の普及が進み始めた大正時代にはすでに着手されており、日本各地の水産試験場などで魚肉を使ったハムやソーセージの開発が行われていました。ハムについてはマグロを使った「ツナハム」がすぐに実用化されていますが、魚肉ソーセージの試作が成功するのは昭和24年(1949年)の事で、愛媛県八幡浜市の西南開発工業協同組合によって最初の魚肉ソーセージが作られています。
2年後の昭和26年には西南開発株式会社が創立され、魚肉ソーセージは「スモークミート」の名前で商品化されています。全国的に広がるきっかけとなったのは商品化から一年後の昭和27年、明治屋と販売契約を結んだ事で、認知度の向上に合せて後発のメーカーの参入も行われました。
昭和29年にビキニ環礁で行われた水爆実験によって日本の第五福竜丸をはじめとする多くのマグロ漁船が被ばくするという事故が起こり、処理のために大量の放射能汚染マグロが水揚げされると風評被害からマグロの大暴落が起こり、余剰となったマグロを原料とした魚肉ソーセージの生産量が一気に増大する事となります。
安価な魚肉ソーセージは学校給食でも採用されて普及が進み、昭和37年にはJAS(日本農林規格)が制定され、その後も生産量は増え続け、昭和47年には18万トンを超えるという最大のピークを迎えます。
安定的に推移すると見られていた生産量ですが、ピークを迎えた2年後の昭和49年、保存料として使用されていた食品添加物のフリルフラマイドに発ガン性、催奇性がある事が指摘され、生産量は12万トンへと急落する事になります。
業界では魚肉ソーセージへの保存料の使用をすぐに中止し、保存料を使う代わりに高温高圧で殺菌するか、pHや水分活性を調整して過熱殺菌を行う、10度以下の温度管理をして流通させるという方法が検討され、多くのメーカーで高温高圧殺菌が採用されています。
昭和51年にはアメリカとソ連が排他的経済水域の設定を宣言したために、主原料となっていたスケソウダラの価格が高騰するといった問題に直面し、流通の発達や一般家庭への冷蔵庫の普及によって食肉加工品が広く食べられるようになって存在価値が減少した事も生産量の減少に繋がってしまいます。
メーカー側の努力も続けられ、アニメなどのキャラクターとのコラボや原料が魚由来である事、高タンパク低脂肪な食品である事を活かしたヘルシー志向の取り込みなども行われ、カルシウムやDHA(ドコサヘキサエン酸)、ビタミン類、コラーゲンなどの成分の強化も行われ、魚肉ソーセージは見直されつつあるともいわれます。
BSEや鳥インフルエンザ、口蹄疫などの食肉をめぐる問題の発生によって急激に需要が高まり、メーカー側でも当惑するといった事も起こってはいますが、生産量は5万~8万トンの間で推移するに留まっていて、一時に栄光を取り戻すには至っていません。使い勝手が圧倒的に良くなっている事にメーカーの頑張りを感じながら、これからも応援してあげなければと日本ならではの食文化を眺めています。
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