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第2136回 栄華の果て



 栄華を極める・・・歴史関連の書物を読んでいると結構目にする言葉なのですが、一庶民としてはどのような状態なのかあまりイメージする事ができません。歴史上、どのような人が栄華を極めたのかと思いながら振り返ってみると、藤原道長はその一人ではないかと思えてきます。

 藤原道長は平安時代の中期に活躍した公卿で、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の外祖父にあたり、長女の彰子を一条天皇の皇后、次の三条天皇には次女の妍子、三女の威子は後一条天皇の皇后として「一家立三后」と、当時の人々を驚嘆させています。

 父の兼家は摂政として権力を掌握していますが道長は五男であり、有力な兄の陰に隠れて当初は目立たない存在だったといいます。兄の道隆が酒が元で命を落とし、続いく次男の道兼が伝染病で相次いで命を落としたあたりから頭角を現しはじめ、左大臣となって権力を握っています。

 道長は非常に豪爽な性格であったとされ、父の兼家が才人として知られた関白頼忠の息子、公任を羨んで自分の息子たちと比較し、「我が子たちは遠く及ばず、公任の影を踏む事さえできないだろう」とため息交じりに嘆いた際、言葉もない道隆、道兼を尻目に「影を踏む事はできないでしょうが、その面を踏んでやりましょう」と答えたとされます。

 深夜の宮殿を巡る肝試しを命じられた際も兄の道隆、道兼が恐怖のあまり逃げ帰ってしまったのに対し、道長は一人肝試しをやり遂げ、宮殿奥深くの柱を削り取って証拠として持ち帰っています。

 そんな道長の栄華を表したものとして「この世をば、わが世とぞ思う、望月の、欠けたることも、なしと思えば」という詠が残され、三女を後一条天皇に嫁がせた直後の道長の心情を表しているともされます。

 道長自身はいい過ぎたと思ったのか、自らの日記である「御堂関白記」にその日の宴席の様子を描き残しながら、詠については記載していませんが、道長に批判的だった実資の日記に書き残されて後世に伝えられる事となっています。

 それだけの栄華を誇った道長ですが、晩年は糖尿病に悩まされていた可能性を示す資料が残されています。道長の死因については不明とされ、ガンもしくは糖尿病という憶測がされていますが、さまざまな資料をみていると糖尿病が有力なように思えてきます。

 道長は50歳を過ぎたあたりから頻繁に喉の渇きをうったえ、よく水を飲んでいたとされます。その頃の道長とされる肖像画は、栄華を反映した美食のためか、かなりの肥満体となっており、美食、飽食、運動不足に当時の貴族にありがちな不規則な生活の跡と見る事ができます。

 当時の権力争いはその後の武家社会のような明確な軍事力を用いたものではなかった事から、心理的なストレスも大きかった事も考えられ、酒を好んだ事も糖尿病発症の要因として考える事ができます。

 道長の父をはじめとする親戚筋にも糖尿病と見られる病で死亡している事から、生活習慣やストレスに加え、遺伝的な要因も大きく発症に作用したと見る事ができ、晩年、実資に対し、「そなたの顔がよく見えぬのだ」と話していた事は、糖尿病性の視力疾患を発症していた事を彷彿とさせてくれます。

 最晩年に背中におできができ、長く苦しめられたという記録も残されていますが、血液中に糖分が多く、最近の感染症を起こすと治りが困難な糖尿病の典型的な症状と見る事もでき、その後、亡くなっている事から、化膿した部分から雑菌が入り込み、敗血症を引き起こした事が栄華を極めた道長の命を奪ったとも考えられます。

 詠に残された満月のように満ち足りていた道長の人生、全てに恵まれていながら健康だけには恵まれなかった事が、文字通り道長の命取りとなったという事ができ、どのような地位にあっても自らの健康は自ら守らなければならない、そう教えてくれているようにも思えます。


 
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