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第1795回 鶏の所以



 以前、マグロ料理の専門店で「マグロのから揚げ」をいただいた事があるのですが、身が軟らかい鶏肉のから揚げという感じで、わざわざ割高なマグロではなくても充分で、から揚げは鶏肉が一番と思った事があります。その際、もう一つ思った事に、質感や色合いが近い事から、マグロの油漬けの缶詰に「チキン」の名前を付けたのは、実に見事なネーミングと思ってしまいました。

 日本で最初に商業的に生産された魚の缶詰は、明治10年(1877年)に北海道で作られた鮭の缶詰とされ、国内には生産された一部が軍用に用いられる以外は、ほとんどが輸出に回されていました。

 それから遅れる事、26年。1903年にマグロの油漬けの缶詰がアメリカで発明され、人気となっていました。日本でもアメリカでのニーズの大きさから、各地の水産試験場においてマグロの油漬け缶開発の研究が進められますが、充分な品質を確保した製品の開発には至らず、1929年になって初めて静岡県の水産試験場においてマグロの油漬け缶が完成されました。

 静岡県の水産試験場で試験製造されたマグロの油漬け缶は、「富士丸ブランド」のラベルが貼られてアメリカへ輸出され、手応えを感じた静岡水産試験場は各地の缶詰業者にマグロの油漬け缶製造を製造する事を提唱し、その呼びかけに応えるように翌1930年、清水食品がマグロの油漬け缶の製造を開始し、9800ケースもの製品をアメリカへ輸出しています。

 清水食品の成功を受け、1931年には後藤缶詰も水産試験場の技師に依頼した試作品を持参して渡米し、現地よりも安くて優れた製品を作れるという自信を深め、原料となるビンナガマグロ漁の最盛期に合わせて缶詰工場を建設し、マグロの油漬け缶製造に参入しました。

 後藤缶詰ではマグロの漁期にはマグロの油漬け缶が作られ、冬場はミカンの缶詰製造を行うという操業が行われていましたが、第二次世界大戦が始まると物資の不足から缶詰の原料は政府の統制下に置かれ、戦後もしばらくは統制下に置かれた状態が続けられました。

 原料の配給制が終わり、自由な製造が行えるようになってもアメリカ市場の安定性を確保するため、マグロの油漬け缶の製造は政府によって割り当てが決められ、自主的に輸出量を調整するために共販会社が設立されていて、マグロの油漬け缶は無地のまま製造され、共販会社へ納入された後、共販会社によってオリジナルのラベルが貼られて輸出されるという販売方法が採られていました。

 その後、アメリカ向けの輸出は飛躍的に伸び、マグロの油漬け缶製造業者は早い段階で戦後復興を果たす事となるのですが、アメリカ政府は1951年にマグロの油漬け缶の輸入関税をそれまでの22.5%から倍の45%に引き上げ、国内業者の保護に乗り出し、日本のマグロの油漬け缶製造業者は、製品をマグロの水煮缶に切り替える事で低税率の製品輸出に務めています。

 輸出は順調に行われ、業績は安定していましたが、政府によって製造量が割り当てられ、共販会社によって同じブランドで売られている状況では、いつまで経っても競合他社の製造規模を超えられないと考えた後藤缶詰では、それまで販売実績のなかった日本国内に目を向け、共販会社への単なる納入業者からマグロの油漬け缶製造メーカーへの脱却を図るという方向転換が行われました。

 日本人の住まいが団地に移り変わって核家族化も進み、食の欧米化も進む事から、昔のように炭火で魚を焼くのではなく、手軽な缶詰も普通の食べ物となる事が予想され、マグロの油漬け缶も市場に受け入れられる事は確信できていたのですが、高度成長期の工業的な風景を見慣れた若い世代が「油漬け」という言葉にあまり良い印象を持たない可能性が考えられた事から、色が白いビンナガマグロの肉が「海の鶏」と呼ばれる事がある事を元に「チキン」の名前が与えられています。

 今日ではあまりに一般化し過ぎて登録商標にも関わらず、他社の製品であってもマグロの油漬け缶はチキンの名前で呼ばれてしまいますが、少しでも馴染みのない食べ物を抵抗なく受け入れてもらおうと工夫を凝らした末の事と、食の歴史の面白さを感じてしまいます。


 
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